挨拶が飛び交う朝の通学路を、良子は思案にふけりながら歩いていた。
良子の頭を占めるのは今朝、知ってしまった事実。
有馬優乃。同学年の少女が援助交際を行っているという事実。しかも、どうやらそれは組織的に行われているようだった。援助交際斡旋グループ。何故、彼女はそんなものに所属してしまったのか。経緯は?目的は?見過ごすわけにはいかない。辞めさせるにはどうすればいいか。
まずは、有馬優乃本人の話を聞くべきか。さて……どうやって……
そこまで考えて、良子はふと、周りが異様に静かな事に気がついた。
あと五分も歩けば正門が見えてくるだろう通学路は、典上高校に向かう生徒で溢れている。
いつもは挨拶を交し合い、時にじゃれ合い、雑談に興じている生徒たちが、声を潜め、囁きあい、良子の方に視線を送っている。
普段から良子は、その整った顔と洗練された佇まい、そして、三歳児でも知っている。呆け老人でも忘れないと言われるほどの大企業、天城グループ会長の娘という出自から、他の生徒の視線を受ける事が多い。
いつでも、憧れ、敬意、羨望、あるいは畏怖を含んだ周囲の視線に良子は晒されていた。
まるで、触れてはいけない美術品を鑑賞するように遠巻きに良子を眺める視線。
その視線の色合いが今日はいつもと違っていた。
いつもより、さらに一回り遠巻きに注がれる視線。
……居心地が悪い。
生徒達の視線に含まれるのは、好奇心、疑問、哀しみと一種の哀れみ。
その理由は隣を歩いている悪魔だ。
周りからは、ただの不良少年にしか見えないのだが、それがまた良くなかった。
「なんで天城さんはあんなのと歩いているんだ?」「まさか、天城様は非行にはしってしまわれたのでは……」「グレた良子たんモエェー!特攻服姿の良子たんブヒィィィィ!」「妄想膨らみすぎでしょ……」「絡まれてるわけじゃないみたいだけどなんなのかしら」「ねぇ、もしかして良子様の彼氏とか?」などと囁きあう声が漏れ聞こえてくる始末だ。
良子は天を仰ぐ。
一般の生徒達にとって良子は近寄りがたい高嶺の花といった存在のために直接、隣を歩く不良少年との関係を訊いてくる者はいない。
したがって、漏れ聞こえてくる会話に良子は弁解することができない。
囁かれている内容は好奇心と憶測によって膨らみ、スキャンダラスな噂となって学校中に広まるだろう。
……頭が痛くなってきた。
そんな良子の様子を気にも留めずに、悪魔は親しげに良子に声をかける。
「良子ちゃん、良子ちゃん。どこに行くんよ」
良子は何を言っているんだこいつはといった目で悪魔を見る。
「どこって、学校に決まってるでしょ」
「でもさ、良子ちゃんの親父さんってば学校の偉い人なんでしょ?」
「正確には理事長の上のさらに上ね。それがどうしたの?」
「だったらさぁ、サボろうが成績悪かろうが卒業できるわけでしょ?行く意味ないっしょー」
悪魔は馴れ馴れしく、良子の肩に腕をまわして話しかける。
自分たちが周りから注目されているのをわかっていて、あえて行動している。
さすが悪魔。悪魔いやらしい。
「学校はね卒業資格を取りに行くだけの場所じゃないの……それより、貴方まさか学校にまでついてくる気?」
「あぁ“洗脳”を使って良子ちゃんのクラスにこんにちわってのもできるけど、ちょっと勘弁。わざわざ勉強するために軟禁されるなんて気が狂ってるとしか思えない!まして、興味の無い事まで叩き込まれて貴重な脳味噌の容量を潰されるかと思うと、おぉう、背筋が凍るね」
悪魔の意見を良子は鼻で笑う。
「馬鹿ね、学校は勉強だけじゃなく、様々な事を学ぶ場なのよ」
肩に回された腕を払いのけると、良子は颯爽と典上高校正門に向かって行った。
朝のHR前の騒がしい教室、それぞれが挨拶を交わし、仲のいいグループがお喋りに興じている。
良子は教室に入ると特に誰かと挨拶を交わすことも無く、自分の席に座り、静かに一時間目の準備を始める。
朝のHR。担任の教師が連絡事項を伝える。調子のいい生徒がした質問に笑いが起こり、和気藹々とした教室。その中で良子は担任からの連絡事項をメモし、変更点を修正した本日の予定の確認をしっかりとしていた。
授業が始まる。
授業中、教科書を忘れた生徒が隣の生徒に見せてもらっていたり、消しゴムなどの文房具の貸し借りを行う者、教師の目を盗んで手紙を回している者、少なからず私語はあっても授業の邪魔にはなっていない。
そんな高校生らしい授業の雰囲気の中、良子はしっかりと授業に集中し、黒板に書かれた内容を自分なりにまとめて、きっちりとノートを取っていた。
授業の合間の休み時間。友達を誘ってトイレに行く生徒や、廊下に出て他のクラスの生徒と話す者、授業中に出された課題についてグループで話し合う者、忘れた宿題を見せてもらえるよう友人に頼み込んでいる者、一様に授業から開放された一時の時間を思い思いに過ごしている。
良子は前の授業の復習を手早く済ませ、次の授業の用意をし、不備が無いか確認をして休み時間を過ごした。
そうして、一時間目、二時間目、と順に午前中の授業が終わり、机をつき合わせて弁当を囲むグループ、友人を誘って食堂に向かうグループ。購買で買ったものを持ってお気に入りの食事場所に向かうグループと、それぞれ昼食の時間を楽しんでいる。
良子は独り、教室から抜け出すようにして、普段、人が近寄らない特別教室棟の屋上にいた。
良子の特等席とも言える場所で、自作の弁当を広げる。
いい天気だ。暖かな日の光と、爽やかな風が心地良い。
「いただきます」
「って、いやいやいや、良子ちゃん!違うでしょ!つーか良子ちゃん学校で勉強しかしてないじゃん!」
良子が弁当に箸を付けようとした瞬間、どこから湧いたのか目の前に悪魔が出現していた。
「ななな、なんで貴方がここにいるの?誰もいないはずの屋上なのに!」
驚いて卵焼きを取り落としてしまった。
「まぁ、まぁ、落ち着きなよ良子ちゃん。そしてさらっと、誰もいないはずとか悲しい事いわない」
「私はね、ご飯はゆっくり一人で食べる派なの!」
「あぁ、もうその言葉が痛々しい!神よ!何故、かくも辛く厳しい試練をお与えになるのでしょうか!つーかご飯も、じゃん!ずっと一人じゃん!独りっきりじゃん!ぼっちじゃん『馬鹿ね、学校は勉強だけじゃなく、様々な事を学ぶ場なのよ』とか格好つけて言ってたのに、ぼっちじゃん!」
「ぐぬぬ」
天を仰ぎながら歌い上げる様に嘆く悪魔に、良子は反論できずに苦渋の表情を向ける。
触らぬ神に祟りなし。良子の父親、そして天城グループはあまりにも強大だった。
つまり、同じ学校に通う生徒でも、親が天城グループで働いていたり、仕事を受注していたり、なんらかの関係をもっているために、見えないところでの上下関係が築かれてしまっていた。
良子と関係性を持つということは、多かれ少なかれ親の仕事にも影響が出るという事、良好な関係を築くことができればいいが、最悪、何かの拍子で機嫌を損ね、親は解雇、自分自身も含め、家族が路頭に迷ってしまう。
実際にそんな事は良子の性格、その父親の性格から起こりえることは無いのだが、周りの生徒達はそう考えてしまっている。
一高校生が相手にするには天城グループ会長の一人娘、次期後継者という肩書きは荷が勝ちすぎる。
したがって、良子は高嶺の花どころか、天に座す神のように扱われていた。決して人が触れる事のできない存在、触れてはいけない存在、誰にも触れられない――孤独な存在。
口に含んだおかずが味気ない。今日のお弁当は良くできていたはずなのに、独りのせいか色褪せてしまっている。
皆で食事を囲めば、たとえ失敗していても彩り豊かに感じることができるのに。
良子が声をかければ輪の中に入れてもらうことができるだろう。しかし、それは良子に気を使った、良子の顔色を窺いながらの食事になってしまう。
気を使いながらの緊張した食事。良子はクラスメイトにそんな思いをさせるぐらいなら独りでいいと思った。
「でー、こんなところで一人、寂しく、侘しく、虚しく、弁当を広げていると」
「トイレの個室で食べるよりましでしょ」
「もし、そうだったら、俺っち悲しみのあまり消滅してもおかしく無かったよ」
「ここは見晴らしがいいし、風も気持ちいいでしょ?」
「……一人ぼっちなのは便所だろうが屋上だろうが変わらないけどね」
「ぐぬぬ」
執拗に孤独感を強調する悪魔に、良子は押し黙ってしまう。
この悪魔。人の心の傷口を針でグリグリと弄繰り回してくる。地獄に落ちればいいのに。
箸を握り締める良子の手を見ながら、悪魔はしゃがんで良子と目線を合わせると優しく微笑む。
「良子ちゃんが、望むなら、心の底から渇望するなら、俺の力で良子ちゃんの望みを叶えてあげるよ。孤独を忘れ、笑い合う友達をつくってあげる。望むままに、望むだけ」
「貴方の力で友達をつくったところで無意味。それじゃ天城の権力で他人を従えるのと何も変わらないわ」
良子は悪魔の提案を吟味する事無く即答した。
悪魔の誘惑にぶれる事のない瞳で拒絶する良子を見て、悪魔は溜息をつくと、良子の隣に腰を下ろした。
「まぁ、そんじゃ、とりあえず俺様、良子ちゃんの友達一号ってことで」
「心の隙間に入ってくるのが上手いのね。さすが悪魔」
「そんなんじゃなぃよん」
手をひらひらと振る悪魔に、良子は口元を和らげる。
「嘘でも……ありがと……」
良子の小さい呟きは、風に吹かれて消えてしまった。
早々に寝転がって昼寝を始める悪魔の隣で、良子は弁当の残りを口に運ぶ。
さっきまでとは味が違う気がした。
こいつは一体、なんなんだろう。悪魔は自らの契約者、天城良子の後姿を眺めながら思う。
放課後。日の傾き始めた街中。
良子は、朝にネットで見た写真の少女、有馬優乃の後を身を隠すようにしてつけている。
今も、電信柱に身を隠すようにして前方を歩く有馬優乃を見ながら、良子はなにやら迷いながら、足を出そうとしたり、引っ込めたり、頭を振ったり、もじもじしている。
「良子ちゃん。なにやってんの?ストーカー?そういう歪んだ愛の形?」
学校を出てからずっとこんな調子で、有馬優乃に声をかけることができずにいる良子に、悪魔は意味不明なモノを見るような顔で問いかけた。
「違うわよ!どうやって有馬さんに声をかけようかと思って悩んでるの!」
あくまで前方を歩く有馬優乃に気づかれないように良子は小さい声で叫ぶ。
「え?なんで?告白すんの?」
首を傾げる悪魔に、良子はなんだこいつといった目を向ける。
「流れを読みなさい。貴方も朝、見たでしょう?そのことで有馬さんに話があるの」
「ふぅん。で?」
「でって、話題が話題だからどうやって声をかければいいのか悩んでるんじゃない……有馬さんが……ああいった……その……」
「なんで金で体を売ってるかって?そんなん聞いてどうすんの」
金のため。欲望を満たすため。刺激を味わうため。遠回りの自傷行為。理由なんかいくらでもあるだろうし、理由なんていくらでもでっち上げられるだろう。良子がそれらの理由に興味を持っているようには悪魔には見えなかった。
「もちろん、辞めさせるわ」
当然の様に言い放つ良子を、悪魔はなんだこいつといった目で眺める。
ホントになんなんだろうかこいつは。一日二日で人間性なんてわかるはずが無いのは当然だが、それにしたって天城良子は悪魔にとってまるで不可解な人間だった。
人間と呼んでもいいものなのだろうか。
悪魔が今まで見てきた人間は願い事を叶えてやると言えば、たちまち欲望を噴出させた。望みが無いなんていうのは自分の力が及ばない望みに言い訳して諦めているに過ぎない。
制限を取っ払ってやれば、欲望は無限に広がり、魂は堕落し、腐り、果てる。
悪魔は人間の意志の強さ、欲望の強さ、願いの強さを嗅ぎ分けることができた。
その能力ゆえに悪魔は、契約した人間が最も強く願う望みを易々と実現させ、踏み躙る。
それなのに良子が何を望んでいるのか悪魔には解らなかった。
何も望んでいないように見えた。
まるで、人の形をしているだけの意志をもたない人形のようだった。
本心が見えてこない。良子の反応や行動がテンプレを当てはめているようにしか見えず、そこには個性が感じられない。人間ぶった行動にしか見えなかった。
他の生徒が良子と仲良くしないのは彼女の出自にももちろん原因があるだろうが、なによりもその中身に原因があるのではないだろうか。同じ人間とは思えないから誰も近づかない。
人は自分と違うものを恐れる。厭う。遠ざける。
規則や、常識から外れないようにして天城良子は人間らしさを装っているように悪魔には見える。
今だって、有馬優乃を止めようとしている理由が倫理的に望ましくないからというようにしか見えない。それは、本心からではなく、意思ではなく、ルールにのっとっているに過ぎない。
天城良子、彼女の望みは一体なんなのか。
「えーっと、つまり、有馬優乃の話を聞いて、その上で援助交際をやめさせると」
悪魔は頭を抱えながら良子に問いかけた。
「そう、そのために話をするの。なに?私、おかしなこと言ってる?」
目を丸くしている悪魔を見て良子は純粋な瞳で不思議そうに首をかしげた。
悪魔はその瞳を汚すように口を歪める。
「んー、優乃ちゃんの方に納得できるような理由があったらどうする?例えば、どうしてもお金が欲しい!とか、純粋に楽しんでやってるとか、むしろ生きがいかも知れないし、それなら誰も困らないでしょ?」
「どんな理由があっても辞めさせる」
「えー、それじゃぁ、話をする必要なくない?」
「なんで?話をするのは辞めさせるため、理由を聞くなんて言ってないわ」
「おいおいおいおい、おかしくないかい?理由がどうあれ辞めさせる?それは相手の意見を尊重せずに、気持ちを考慮せずに、暴力的に価値観を押し付けるってこと?それって、ひどくないかい?その思想は危なくないかい?それはただの自己満足で、独善的なものじゃないかな」
嘲るような悪魔の言葉を聞いて、良子はそれを飲み込む様にゆっくりと頷く。
「貴方の言うことは正しい。だけど、父が言っていた。『善なる行いは全て、独善』だと。だから、私は私が善いと信じる事をする。正しいと胸を張れる事を行う」
良子からの穢れのない強い視線を受けて、悪魔は唾を飲み込む。
なるほど、隠しているのか。普通を装うことで。
「良子ちゃんはさぁ、なんだってそんなに優乃ちゃんが体を売るのを止めたいわけ?」
「まず、法律に違反している。次に、うちの学校の生徒がそんな事をしているのを黙って見過ごせない。それに、なにより――」
そこまで言ってから、良子は急激に顔を真っ赤に染めて宣言する。
「――そういう事は愛し合うもの同士でするものよ!」
「ブファ!」
悪魔は噴いた。まさかそんな事を大真面目に言われるとは思ってなかった。
良子は笑っている悪魔に抗議するような目を向けながら顔を真っ赤に染めている。
思わず悪魔は笑うのを隠すように顔に手を当て良子から顔を背ける。
これが笑わずにはいられるだろうか。魂を見る目に狂いはなかった。
良子の魂が穢れない高潔な香を放つのを嗅いで、悪魔は唾液が大量に分泌されるのを感じた。
良子の望みがわからないはずだ。
彼女は普通を装って隠している。
他人とは相容れない。理解されない。とてつもない欲望を、野望を、夢を、希望を、信念を隠している。
意志の力は魂の力。強く望む意志が魂を輝かせ、そして目的が達成された時、その輝きは数十倍にも数百倍にも増す。
美味しく育てて喰い尽くす。
悪魔は笑うのを隠すようにして、舌なめずりをしていた。
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