首筋に手を当てながら、立花がぼやく。手の下の真新しいガーゼにはうっすらと血が滲んでいる。
「どうした、そいつは?獲物の返り討ちにでもあったのか?」
東大はわざと嘲るような調子で、余裕のある笑みを浮かべる。
が、状況はよくない。地下室だろうか、狭いうちっぱなしの部屋に閉じ込められ、目の前には立花。その後ろに見張りの男が2人。
体は椅子に座らされていて、手は後ろ手に、足は椅子に手錠でつながれている。
「なんだよ、全然元気じゃないッスか」
立花が、残念そうな声を見張りの男達に向ける。
「お前が、生かしとけって言ったんだろうが」
「そうっした」
立花と見張りの男達は笑い合う。嗜虐心に満ちた。嫌な笑いだ。
「東大先輩、この傷はね。あんたが教育してる新人にやられたんッスよぉ」
立花は、笑みを浮かべたまま、瞬きの無い目で、東大に近づいてくる。
「いったい、どういう教育してるんッスかぁ」
立花は、東大の頬を思い切り殴りつける。肉を叩く音がコンクリートの壁に反響する。
「あの、クソ!とんでもない奴ッスよ!」
一発、二発、三発、八つ当たりで憂さを晴らすように立花は東大を幾度も殴る。
肉を叩く音に混じって、床を液体が叩く音が聞こえ始める。
「おいおい、お前が生かしとけっていったのに殺すきかよ」
見張りの男の声に、立花は拳を止める。
「おっと、危ない……東大せんぱぁい。殺しちゃう前に一つ提案なんスけど」
立花の言葉に東大は赤い唾を床に吐き、目だけで続きを促す。
「先輩、こっちにきませんか?先輩、金好きじゃないッスか、超好きじゃないッスか」
「好きだね。大好きだね。死ぬほど好きだね」
「なら、悪い話じゃないと思うんスよ。俺らが犯人捕まえても、もらえるのは免罪符の10パーセントじゃないッスか。うちのボスなら一仕事、免罪符の20パーセント払うって言ってます。二倍ッスよ。二倍。こっちの方が金になる」
「なるほど。それで、てめぇは捕まえるべき相手に金で使われてると」
「ま、金の件も、ありますけど、ありまくりッスけど、見てくださいよ後ろの二人」
立花は後ろに控える見張りの二人を指差す。入り口を塞ぐように並ぶ男達は、どちらも服の上からでも筋肉が浮きでているのが見え、相当に鍛えていることがわかる。おまけに、ベルトにナイフや警棒を下げ武装している。
「あんなのが、わらわらいるんスよ?俺一人じゃどーにもできませんよ」
勝ち目が無いから、リスクを避け、利益を選び、軍門に下った。
立花の発言を鼻で笑って、東大は不敵な笑みを浮かべる。
「つまり、一人じゃなけりゃ、どーにかなるわけだ」
東大の言葉に立花は諦めたように溜息を吐く。
「ほんとに、あんたに関わるとろくなことがねぇ。損してばっかりッスよ」
「俺はな立花。金は金でも綺麗な金が好きなんだよ。汚い金じゃ気分よく使えないからな」
indulgentia
サイドA 八章 -Tastes differⅣ-
「星浄のお嬢さんと、こうしてお会いすることができるとは」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます」
映画で見るような細長い机の端に座り、新宇海運グループ総帥、新宇通太郎と対面している。目の前には一皿の料理。
自分は現在、独立捜査官の綴ニケとしてではなく、偽造人格――星浄グループ会長の孫娘、星野征華として新宇通太郎の私邸にいる。
きっかけは、偽造人格のアドレスから送ったメール。
「まさか、星浄のお嬢さんが私と同好の士であるとは思いもよりませんでしたよ。あのメールには驚きました」
「嫌ですわ新宇様、わたくし達は同好の士、征華とおよび下さい」
まぁ、メール自体は容疑者と思わしき人物に手当たり次第に送ったにすぎない。
“貴方のご趣味に共感するものです。ぜひ、お話をお聞かせいただけないでしょうか”
キザキコーポレーション社長、貴崎吉人からの返信は無し。
豪機食研会長、小岩原トニからは、自作の食器と料理の講義と誘いの返事。
そして、新宇海運グループ総帥、新宇通太郎は本日の食事の誘い。
メールを送ってから数日後、何度かのメールのやり取りを得てこの場の機会を得た。
「突然、不躾なメールを送ってしまい申し訳ございません」
「いやいや、構いません。あまり表にお出にならない征華さんからメールを頂けたのですから、喜びこそすれ、迷惑に思うことなどありえません」
その通り。ただメールを送っただけではそれがどんなに的を得ていようが、綴ニケのままでは会うことはできなかっただろう。
偽造人格――星野征華はあまり、社交界に姿を見せない深窓の令嬢。つまり、レアだ。
男性にとって興味をそそる存在であることは間違いない。
新宇通太郎も控えめに、しかし興味を隠し切れないといった視線を、自分というより設定されている星野征華という人間に向けてくる。
顔、首筋、そして胸元に視線が集まる。うん、盛りすぎたか。
新宇が犯人と仮定して、獲物になりえることも考慮しての増量だが、見栄を張り過ぎた感は否めない。ちょっと息苦しいし。
こちらを検分していた新宇の目の色が変わる。
猜疑心と期待と興味こちらを試すような視線に。
「ところで、征華さんはどのように私のことをお知りになったのですかな?」
「立花様からお話をお聞きいたしました。」
噓ではない。ナイフを突きつけていたら勝手にベラベラ喋ってくれた。
尋問できなかったのが残念でしかたない。
「立花様は、私の兄の古くからの友人で……わたくしの、その……ご理解いただいて。特別に新宇様の事を教えていただいたのです」
「立花ね……私のことをベラベラと話すのは感心しないが、今日の場はあいつのおかげか……」
ふぅむ。と新宇はアゴに手を置く。
「立花様を責めないでいただけないでしょうか。立花様は悩むわたくしを見かねて、新宇様の話をして下さったのです」
自分は悲しげに目を伏せ、禁忌を犯す令嬢の苦悩を見せる。
「わたくし達の趣味はあまり人に言えないものでしょう?それにわたくし経験も乏しいものですから」
「そんなことはありません。人に言えることではないかもしれませんが、原始的な欲求ですよ――」
新宇は自らの欲望に忠実であることを誇るように笑みを浮かべる。
「――食べるということはね」
言って新宇は手元のベルを鳴らす。
新宇の後ろの扉から燕尾服の男が現れ、手に持つワインを新宇、次にこちらと順に注ぐ。
ワインを注ぐ使用人らしき男は、しかし、これが本来の仕事ではないのだろう、背中に銃を隠し持っていることはベルトを見ればわかる。
ワインを注ぎ終え、男が退室すると新宇がグラスを上げる。
「食が人にもたらす幸福に」
自分もグラスを上げる。
「乾杯」