パソコンの悪魔B
良子の発言を聞いた途端に噴出した悪魔を、良子は真っ赤な顔で睨みつける。
悪魔は未だに口元を隠してプルプルしている。
このクソ悪魔。なんて嫌な奴なの。
自分だって言うのは恥ずかしかったのに。
そんなに笑わなくても良いじゃないか。というより、自分は正しいことを言ったはずなのに何故、こんな辱めを受けなければならないのか。良子は頬を膨らませ、悪魔から視線を外す。
笑いすぎて変な痙攣をしだしている悪魔なんかほっとこう。ムカつくけど。自分にはしなければならないことがあるはずだ。
良子が視線を、前を歩く有馬優乃に戻すと、彼女は歩みを止めていた。
後をつけているのに気づかれたのだろうかと思ったが、そうではなく、優乃は誰かを待っている様だった。
待ち合わせ。
それは、今朝見たサイトに関わる事なのだろうか。良子は嫌な予感に口元を引き締める。
止めなくては。幸い、相手のほうはまだ現れていない。
今がチャンス。しかし、どうやって声をかければいいのか。
人の目が気になるところで話す内容でもないし、どう切り出せばいいのか。
「ねぇ、どうしたら……」
悩んだ良子が、なんとはなしに悪魔の方を振り返ると、視線の先にあるはずの悪魔の姿は忽然と消えていた。
「……?」
首をかしげて、再び、良子が視線を戻すと、優乃に向かって悪魔が手を振りながら近づいていた。親しげに。
「あぁ〜、ユウちゃん(17)まったぁ?お、やっば、君けっこう良いじゃ〜ん!当たりじゃね?俺、当たりひいちゃったんじゃね」
馴れ馴れしく優乃の肩に手を回す悪魔。
優乃は少し緊張したように体を強張らせながらもされるがままになっている。
良子は二人の関係がわからず、混乱しながらも、二人の前に歩み出る。
「えぇっと、あれ?知り合いだったの?」
良子の問いに、悪魔は無邪気に笑う。
「違う、違う!午後暇だったからさ、買ったの俺が、ユウちゃん(源氏名)を」
空白。
意味が解らない。良子は頭の中が真っ白な状態で悪魔を指差して問う。
「え?えーっと誰が、誰をどうしたって?」
良子の問いに悪魔は自身を指差しながら何でも無い事のように言う。
「おれっちが、ユウちゃん(本名、有馬優乃)を買ったの。今朝の『私立、お嬢様斡旋学院』ってサイトで」
悪魔が自身を指していた指を優乃に向ける。
良子は唖然としながら悪魔の指の動きにつられて、指先を優乃に向ける。
口をパクパクさせながら良子は悪魔と優乃を交互に指差しながら震えた声を出す。
「な、なんで?」
「売ってたから」
「あ、阿呆ーーーーーーーーっ!」
理解の追いついた良子は思わず、大声を張り上げてしまう。
「何やってんの!止めさせようとしてるのに助長してどうするの?需要と供給満たしてどーすんのっ?」
なんなの?援助交際の買い手になるとか。馬鹿なの?もうやだこの悪魔。エロ過ぎ。本能に忠実すぎ。やらしい。やらしいわ!悪魔。色欲まみれのスカポンタン!
自分でも何を言っているのかよくわからない罵り言葉で良子は悪魔を糾弾する。
悪魔の方は、何を怒っているのかわからないという風に、のらりくらりと良子を宥めていたが、不意に手を叩き、名案とばかりに口を開く。
「よし!わかった!良子ちゃんも一緒にエロいことしよう!三人で夜の街へと消えていこう!」
「塵になって滅びろ!」
息を荒げる良子を見て、悪魔はニヤニヤと口を歪める。
「あれ?なに赤くなってるの?何を想像したのかなぁ?やらしぃなー」
「なな、じ、地獄に落ちろーっ」
「もう堕ちてるって」
「頭を撫でるなー」
良子は頭を振って、悪魔の手を振り払う。
もう、文句も出てこない。なんなの?この悪魔、全く悪びれない。
肩で息をしながら、次の言葉を考える良子。
その間を待っていたように、横から声がかけられる。
「あの……天城さん、ですよね……?」
良子が声のほうを向くと有馬優乃が懇願するように良子の手を取る。
「お願い!このことは誰にも言わないで!」
良子は意識の外に消えていた本題の少女を見て唾を飲み込む。
良子は冷静になった頭で反省した――すっかり忘れていた。
「で〜?良子ちゃんや、これからどーすんよ」
悪魔が悦びを隠そうともせずに上機嫌に訊ねてきた。
どうやらとても悪魔らしく、不幸な人間の悲惨な話を聞いて、愉しくて嬉しくて、堪らないらしい。
そんな悪魔とは対照的に、有馬優乃の話を聞いてからというもの、悲痛な表情で考え込んでいた良子は、独り言のように呟く。
「そんなの……決まってるわ」
そう、結論は決まっている。目指すべき結果は辞めさせる事。それ以外はありえない。
しかし、その目的を達成する手段がわからない。
優乃から話を聞いた後、すっかり暗くなってしまった帰り道、良子はずっと悩んでいた。
問題は、有馬優乃が語った現状に到るまでの原因にあった。
二時間ほど前、泣き出しそうに掠れた声で、誰にもいわないで欲しいと訴える優乃の話を詳しく聞くために、良子は彼女を天城グループが経営する近くのプライベートルームに連れて行った。
豪華な個室。まるで高級ホテルのスィートルームの様なレンタルスペースに、始めのうちは目を丸くしていた優乃だったが、誰に聞かれる心配も無く、秘密を打ち明けられる場所、そのために高額な料金を払い借りる場所であることを理解すると、徐々に緊張を解いてぽつぽつと語り始めた。
汚物が食卓に並ぶような不快な話。
優乃の話によれば、発端はネットを通じてある男と出会った事にあるらしい。
ネットを通じてといっても、優乃はいわゆる出会い系を使っていたわけでなく、携帯ゲームのSNSを通じてその男と出会った。
SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)、友人や知人とあるいは全く知らない第三者と日記を公開しあい、趣味や嗜好について語り合うことができるWeb上の場で、話しかけてきた男。
ユーザー名”あおくろ”と名乗る男。
メールのやり取りをするうちに、優乃は男と趣味の話で盛り上がったり、学校での話や相談をするにしたがって信頼関係を築き、実際に会おうということになった。
SNSの中での男の人柄はとても優しくて誠実で好感が持てた。正直、優乃は少し期待していた。
現実は、手酷く期待を裏切った。
男は優乃を無理矢理ホテルに連れ込み、襲って犯して、その一部を撮影した。
無理矢理に撮影されたあられもない姿、それをネタに男は優乃を脅迫した。
曰く、自分の言う事には絶対服従。
曰く、自分が仕切る仕事に協力してもらう。
曰く、逆らえばお前の恥ずかしい姿をネットを通じて世界中にばら撒く。
乱暴され、体に痛みと恐怖を植えつけられた優乃は逆らうことができなかった。
その日以来、”あおくろ”と名乗る男は優乃の前に顔を現すことは無かった。
仕事の指示や連絡は全てメールで送られてきた。
そして、優乃が客をとった次の日には、どうやって撮ったのか、優乃と客の行為の一部始終が盗撮された動画ファイルが送られてきた。
言う事を聞けば聞くほど、弱みが増えて身動きが取れなくなっていく、逆らえなくなる。
堕ちていく。
完全な悪循環は正常な判断能力を奪う。優乃に逃げ道が無いかのように彼女を追い詰め、選択肢を消していく。
言う事を聞くしかないと掠れた声を震わせて、優乃は涙を零していた。
よくある話かもしれない、ありきたりな話かもしれない、不用意な行動が犯罪者につけいる隙を与えて巻きこまれただけ。
きっと、第三者は、警戒心がたりないとか、騙される方が悪いとか、被害者にも反省すべきところがあるとか、言うのかもしれない。
当然のようにしたり顔で語るのかもしれない。
けれど、実際に目の前で語られる被害者の実体験はおぞましく、言葉を無くすには充分なものだった。
実感の無い現実をいきなり突きつけられたような嫌悪感。
教科書でしか知らない戦場にいきなり放り込まれたように、想像以上の凶悪な現実の悲惨さに足が竦み、指先が震えてしまうような感覚。
全てを話し終えると泣き始めてしまった優乃を慰めながら、良子は素早く頭を回転させていた。
どうすればいい?
泣き止んだ優乃をタクシーに乗せ、見送った後、自分は自らの足で帰路につきながら、今の今までずっと考え続けている。
どうすればいい?
未だ妙案の浮かばない良子は焦燥感に駆られながらも、無意識的に瞳に強い意思の光を輝かせていた。
それは、乗り越える壁を目の前にした挑戦者の瞳だった。
優乃自身が望んだわけではなく、脅迫によって現状を強いられているのならば、助けてあげなければならない。
それが彼女を止めようと思った人間の責務であり、義務であると良子は思った。
思考に沈む良子に、悪魔が訊ねる。
「それにしても、なんでそんなに躍起になってるんだい?」
黙り込んでいた良子は、ハッと我に返って悪魔の方を見る。
心底、不思議そうに悪魔は首を傾げながらこちらを見つめていた。
質問の意味を測りかねるかのように良子も首を傾げる。
二人して首を傾げあう。かなり馬鹿っぽい。
「あんな話を聞いたら放ってはおけないじゃない」
良子は当然のように答えた。
悪魔は眉を顰める。
「いやいや、あんな話を聞いたからこそ、ほっとこうよ。完全に、学生の手に負えないもんになってんじゃん。警察に働いてもらうべき事柄よ?」
「そうは言っても、彼女は脅されていて、大ごとにはしたくない。警察が動いたら結局、彼女の秘密は公にしられてしまうわ。犯罪者の罪を暴く事によって、彼女の秘密は晒されて、彼女は二次的な被害を受けてしまう。それは彼女が恐れている脅迫が実現されるのと何も変わらない。他の被害者の娘たちもそれは望んでいないと思う。できるかぎり穏便に、誰にも知られ無いうちに済ませるべきよ」
まるで、用意していた言い訳のように良子の口からスラスラと理由が出ていった。
悪魔は首をかしげたまま、良子の話に納得したかのように頷いた。
何を納得したのだろうか。良子自身、自分の発言に頷くことはできても、それが理由にならない事を知っている。
つまり、先述のような理由があったとしても、だからといって良子が犯罪者と直接戦ってまで解決しなければいけない理由にはならない事を理解している。
「いやいやいや、ワタクシが頷いておりますのは貴方の言葉にではなく、貴方のスタンスというか本質的なものに納得がいったからなのですよ、お嬢様」
いぶかしげに見つめていた良子に悪魔はわざとらしく口調を変えて言った。
悪魔はもう一度、大げさに頷くと、良子の意思を打ち砕くように嗤う。
「つまり、ただの我が儘でしょ」
大義名分を失わせ、崇高な目的を、下らない行いへと引き摺り下ろす一言。
自らの無意識的な部分を抉るような悪魔の言葉に良子は目を見開いた。
「はっきり言って、出る幕じゃないんだよね良子ちゃんはさ。おせっかいで首突っ込んで、しなくてもいい事をしようとしてるだけなんだよ。何ができるかもわからないのにさぁ。できる人に任せるべきだと思うね俺は。例えば、警察とか?しかるべき機関にさっ。興味本位の面白半分、野次馬根性で、自分勝手に行動してどうなるかわかってる?考えてる?何ができる?結果に責任がもてる?やめさせたいとか助けたいとか言って自分に酔ってるだけなんじゃないかなぁ。俺にはそう思えるなぁ。そう見えるなぁ 、良子ちゃんが動く事によって結果として今よりも悪い方向に言っちゃたりしたらどーすんのさ。うわっ、被害拡大?目もあてらんねーよ」
悪魔は非難するように良子の心理分析を語る。
その声を聞きながら良子は顔を俯け、拳を握り締める。
自らの至らなさを感じて体が震える。
私は何を勘違いしていたのだろう。
言葉で嬲り続ける悪魔に、良子は感謝していた。
その通り、ただの私の我が儘だ。
まさに、探していた眼鏡が自分の頭にかかっていたような感覚。
人を助けるのに理由など要らないのだ。そう、自分でも言っていたじゃないか『善なる行いは全て独善』だと。私は正しいと思ったことをするだけだ。したいのだと。
好き勝手に、自分勝手に、我が儘に、独善的に、一方的に。
「私が助けたいと思うから助けるだけ。他に理由はないわ。やりたいから、やるだけよ」
顔を上げて微笑むと良子は決意を口にした。
意志の力に溢れた良子の瞳の輝きを見て、悪魔は感嘆の呟きをもらす。
そして、期待以上の答えを聞いた出題者の笑みで、心底愉快そうに笑う。
「おぉ、いいねぇ、マジ輝いてんよ良子ちん。おーけー。そうゆうスタンス好きよ。やりたいならやればいいと思うよ。我が儘に自由奔放に目的を達成しようじゃないか」
悪魔はおあずけをくらった空腹の犬の様にギラついた目をして続ける。
「さっきから何だ?どうだ?としつこく質問していたのはさ。ぶっちゃけ、良子ちゃんを試していたわけ、良子ちゃんの魂が?俺様を従えるのに足りえるかってね」
急に笑い出した悪魔に、良子はキョトンとした顔をしていたが悪魔の意図を察すると口の端を上げた。
「それで?どうなの?」
良子はわかりきった答えを聞くように、合いの手を入れた。
「もちろん。ごぉぉかくっ!かなりいい!良子ちゃん素晴らしい。最高。ハラショー!というわけで、俺も良子ちゃんがしたいことをできるように協力しようじゃないかっ!」
狂喜しながら悪魔は叫んだ。
浮かれる悪魔に良子は一つ忠告する。
「魂はあげないわよ」
「あぁ、もちろん無償で協力すんよ!出血大サービスだ!俺にとってもスキルを上げるいい機会さ!せいぜい人間界のパソコン技術を学ばせてもらうとするよ!」
試されていたんだ。そして認めてもらえた。
諸手を上げ喜ぶ悪魔を見て、良子はなぜ執拗に助ける理由を聞かれていたかを理解した。
そして、少し嬉しかった。偉大な親を持ってしまったせいで、良子の評価は常に、天城の娘というものが付きまとってきた。良子個人として評価、ましてや認められる事などなかったように思う。
しかし、悪魔は良子の出した答えを評価し、良子の意志を認めてくれた。
認められるということはなんだか誇らしい事の様な気がした。
良子は笑顔で手を差し出す。それに気づいた悪魔がその手を握る。
「これからよろしく」
微笑みながら握手を交わす良子を見て、悪魔は嬉しそうに口を歪める。
認め合うということは素晴らしい事のように思えた。
「あぁ、これから良子ちゃんに協力して、信頼させて、依存させて、いつか魂を差し出すようなお願いを叶えて見せるよ」
悪魔だけど……
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