7 :
ワールドコード
「で?どうだった?」
部屋から戻ってきた真名に狩野は問いかけた。
「え…っと…」
真名は口ごもりながら、ちらちらと高瀬の方を見る。身構える様なその姿は高瀬に対する緊張と迷いが見て取れた。ここで言ってもいいのかと真名は雇い主である狩野に視線を送る。
「構わねぇ、わかったことがあれば報告しろ」
上司の許可を得て真名は狩野の方だけをみて報告を始める。
「えっと、普通とは違う流れというか雰囲気をこの部屋で感じられました。特殊な力が使われていたことは間違いありません」
「どんな能力か解るか?」
「いえ、今まで感じたことのない力の感触なので…ただ、犯人は見分けてます」
「例の悪人かどうかってやつか?」
「違います」
真名ははっきりと狩野の言葉を否定すると言葉を探しながら報告を続ける。
「犯人、枯庭さんはある人がその人だとわかるなにかを追ってここにきてます」
「あぁ?なんだそりゃ?」
「わかりません…なにかってゆうのがなんなのかとか…」
「個人を特定できる何かか」
それまで黙って聞いていた高瀬が考えをまとめるように呟いた。
「ふん、持ち物から持ち主を探すサイコメトリーみたいなもんか」
狩野の言葉に真名は首を横に振る。
「わかりません。物の記憶を読むサイコメトリーとは別だと思いますけど、なにかまではちょっと…」
「能力まではわからない。でも枯庭はなにかを追ってきて指名手配犯を殺害した。奴が追跡系の能力を使ったのなら―」
狩野は意地悪い表情を浮かべて真名に訊ねる。
「―逆に辿って、追えるな」
訊ねるというよりも確認するような狩野に対して、真名は無言で頷く。
「さて、狩りの時間の始まりだ」
もたれていた壁から背を離すと狩野は、凝りをほぐすように、筋肉を暖めるように、それが準備運動であるかのように首をまわして外に出た。
ここにもう用は無いとばかりに外に出た狩野に二人が続き、三人が外に出たところで真名が急に動きを止めた。
黒く戻っていた真名の大きな瞳が再度、色を変える。深海の様な群青に。
「狩野さん…見つけました…」
「あぁ?何を」
真名は、すうっと少し離れたビルを指差す。
「犯人」
枯庭豊は全速力で階段を駆け下りていた。一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。一メートルでも一センチでも一ミリでも離れなければならない。しかし、それでも逃げられるだろうか。いや、できない。彼は本能で理解していた。
例えこの場から逃げる事ができても、逃げ切る事はできないと―
数時間前、現場から少し離れたビルの一室に枯庭豊は戻ってきていた。指名手配犯を追い詰めるための拠点、悪を裁く機会を待つための仮の宿。
その部屋からは双眼鏡を使って、いつでも現場を見張る事ができた。
こちらからは常に監視する事ができ、向こうからは死角になっている。張り込むのには最高の条件を備えた一室。
彼がこの部屋に戻ってきたのには理由があった。念入りに掃除し、生活の痕跡を消した部屋に戻ってきたのは証拠を消すためではなく、殺人現場の捜査状況を見るためだった。正確には誰が捜査に関わっているか調べるために、この部屋から彼は現場を観察していた。
捜査員の一人一人を双眼鏡を使って確認していると、しばらくして、急に捜査員が現場から撤収を始めた。
捜査開始の時間から考えて現場から全員離れるなどありえない。遠くにうかがえる捜査員達の表情は一様に不満げだ。何らかの、現場とはそぐわない指示がされたに違いない。彼がいぶかしんでいると数十分後に一台の車が現場に到着した。
枯庭は車から降りてくる人間を注意深く観察した。
一人はがっしりとした体格の警察幹部と思わしき男、もう一人はチンピラのようなだらしなく歩きながらも暴力的な雰囲気を滲ませている男。その二人だけでも妙な組み合わせだったが、最後に車から降りてきた人物を見て枯庭はますます首を捻る事になった。
(女の子?)
最後に車から降りてきたのは歳若い女性、おそらく成人して無いであろう少女。しかも遠目からもわかる様な美しさを持っていた。殺人現場と美しい少女。
場違いで、異質で、奇妙な三人組は当然のように捜査員が消えた現場の中へと入っていく。
ブルーシートの中に入ってしまわれてはこちらから中の様子を見ることはできない。彼は疑問を浮かべたまま三人組が出てくるのを待った。
一時間ほど経った後、ブルーシートをめくって三人組が外に出てきた。
待ち疲れてぼんやりと現場を眺めていた枯庭は慌てて双眼鏡を構えなおし身を乗り出すようにして視界を向けると―
―目が合った。
時間が止まったかと思った。
ブラックホールに吸い込まれる前、光速を越えて時間が引き延ばされるように、一瞬の時が無限に感じられた。
少女の瞳の真ん中の瞳孔の奥の奥、この距離では見えるはずのないそこに吸い込まれた気がした。飲み込まれた気がした。
気づくと彼は部屋を飛び出していた。
こちらから一方的に観察し向こうからは死角になっている張り込むのには最高の部屋、向こうからはこちらに気づく事のない安全な部屋。その筈だった。
一方的に力を行使できる圧倒的に有利な場所から彼は逃げ出さざるを得なかった。そんな場所はもう無いのだと痛感させられた。
筋肉が引き千切られんばかりに足を動かし、呼吸する事も忘れて走りながら彼は理解した。
逃げる事でいっぱいの頭でなお、理解した。
これからは追われる立場になったのだと、自分が獲物にかわったのだと。
焦燥感が体中を抉りながらのた打ち回る。それなのに可能性が見出せない。これが獲物の立場、なんという絶望感だろう。
しかし、同時に彼は歓喜していた。彼女の目を思い出す。尋常じゃない力を、異常な存在を、異質がゆえに同質な少女を思い出す。
彼は何かを失って何かを得た。
絶望的な逃亡は、しかし、絶望そのものではなかった。
「四階の…二つ目ここからは見えない部屋」
ビルを指差しながら、真名は目を凝らすように声を絞り出す。
「高瀬!」
狩野が叫ぶ前に、高瀬は走り出していた。脊髄反射のように真名が言い終わるよりも先に高瀬は行動を起こしていた。
「あ…」
すでに姿が小さくなっている高瀬を追おうとした真名の肩を狩野が掴む。
勢いをそがれた真名が隣の狩野を見上げると端的な答えが返ってきた。
「今から行っても無駄だ」
諦めた様に振舞いながらも苦虫を噛み潰したような狩野の心の内を覗いて、真名は悲しい気持ちになった。狩野は追わなかったのではなく追えなかった。自分のせいで。真名はせめてふらつく足元をしっかりしようと試みたが上手く力が入らなかった。
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