8 :ワールドコード

 空は赤く染まらずに、ただただ陽を落としている。
 もうしばらく経てば街灯も点り始めるだろう。
 殺人現場の近く、薄暗くなり始めた公園のベンチに真名は俯きながら座っていた。

 (体に力が入らない、手足の先が少し痺れてる気がする。貧血…少し違う。鼓動が聞こえない。血の引いた頭がじわりと熱い)

 ふと、気を抜くと遠のいてしまいそうな意識を、いっそとばしてしまいたいと思う不快感の中、何とか保ちながら真名は自分の状態を確認する。

 (生きてる心地がしない…当てられちゃったか)

 無理も無かった。先ほどまで大の男でも気分の悪くなるような場所で能力を使っていたのだ。
 真名の特異な能力が感覚であり、それによって得られる感触であるために、必然的により強い刺激をその身に受けることになる。
 殺人現場―人が死んだ場所、殺された場所。
 そこで感じられる全てが真名にとっては、より鮮明で、より克明で、刺激的だ。
 利き手を使わずに逆の手で生活するように、普段制限している能力を解放し、全力で振るうということは、彼女にとって
 ―目を閉じて、息を殺し、耳を塞いでも入ってくるそれを
 ―目を凝らし、鼻を近づけ、聞き耳を立てて、受け入れるようなものだ。
 人が殺された部屋、壊された生活が滲ませる死臭、壁に染み込んだ断末魔の叫び、冷たくなっていく手形、空気に響いた枯庭豊の執念の残滓、垂れ流される被害者の汚物と絶望、畳を濡らして乾いた血の粘度、死に際の目が見た過去、吐きそうな達成感、傷口から叫びだす恐怖、etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.etc.......

 「新人刑事だったら、吐いてるってば…」

 自虐的に呟く真名の頭に背後から何か固いものが乗せられた。
 一瞬、緊張したが、狩野の気配を感じると、真名は安心して頭の上に手を伸ばした。
 避けられた。
 両手が虚空を掴んだ代わりに左頬に冷たいものが押し付けられる。

 「…………はぅ…」

 真名の口から力の抜けた声が漏れる。缶コーヒーの冷たい感触が心地よかった。

 「リアクションが薄い」

 狩野は理不尽な怒りをつまらなさそうに吐き捨てると、缶コーヒーをグリグリと押し付けて真名に受け取らせた。

 「渡し方はどうかと思いますけど…ありがとうございます」

 真名は隣に腰を下ろした狩野に礼を言った。

 「あぁ、気にすんな、ちゃんと給料から天引いとくから」
 「えぇ…だったら私、ジュースがよかったんですけど」
 「缶コーヒーなんてジュースみてぇなもんだろうが、何だよ微糖って、どこが微なんだよ、クッソ甘ぇ」
 「私がコーヒー苦手なの知ってるくせに…」
 「っせぇな、わかったよ奢りだ奢り。太っ腹な所長様に感謝して飲めよ」

 苦手と言いながら嬉しそうに缶コーヒーを飲む真名を見て狩野が溜息を吐いていると、ふいに携帯電話が鳴り出した。
 デフォルトの着信音、周りの迷惑を一切考えていない音量。
 (なんですか、その着信音は…ダサッ)と表情で訴える真名に(うっせぇぞ、クソがっ)と目で応えてから狩野は電話に出る。

 「あぁ、そうか…やっぱ、向こうからは見られてたってことか…なんかわかったら…あぁ、お互いにな…今は近くの公園だ、お前、車で……いや、なんでもない、じゃあな」

 狩野は携帯を閉じると気だるげに足を伸ばした。

 「高瀬さんですか?」
 「あぁ、結局、枯庭のクソは捕まえられなかったってよ、ただお前が指定した部屋に誰かいたのは間違いないらしい。簡単に借りられる単身赴任者用のウィークリーマンションを偽名で借りてたっぽいな。まぁ、何かしら証拠みてぇのが出てくんだろ、奴は詰みだ…高瀬の野郎がすぐ捕まえんだろ」
 「なんかやる気無いですね」
 「まぁな、超能力者っても殺害方法は普通、不可解な点無し!今回は高瀬の仕事だ。法律で裁けるからな」

 そうは言いながらも、狩野が納得し切れていないのが真名にはわかった。
 真名は狩野がいかに超能力者を憎んでいるかを知っている。特別な力によって圧倒的に優位な立場から一方的に振るわれる力、そして、それが当然の事であるかのようにその力を使う人間を狩野は心の底から憎んでいる。
 それこそ、殺したい程に―枯庭豊が犯罪者を許せない様に、いや、それ以上の憎しみを狩野恭一は超能力者に対して抱いている。
 内臓を焼け爛れさすような感情が、狩野の体中をゆっくりと巡り、怒りや憎しみを融解し、別の何かに変えて体中を満たしているのが真名にはわかる。
 先の狩野の言葉に嘘はない。しかし、出口を無くした感情がドロドロと狩野の身体を蝕んでいくのが真名にはわかる。わかってしまう。

 「とりあえず、今日は解散だな。高瀬にお前を送らせようかと…お前、ほんとにそういうのだけはすぐ顔に出るな」

 心底嫌そうな顔で眉をひそめる真名に狩野はあきれたように声をだした。

 「…私…あの人、苦手です」
 「あ?素で人のこと”貴様“とか言っちゃうからか?」
 「それもありますけど」
 「それとも一人だけ劇画チックだからか?」
 「それもそうなんですけど…そうじゃなくて、あの人は陰謀というか、嘘と秘密がありすぎて何が秘密なのか…どれが本質なのか…わからないというか…あの人は信用できません」

 真名の力は感じることだ。真名は他人の気持ちを感じることが出来る。もし、その人間が嘘を吐いていれば、重要性やその種類、それがどれだけ偽装され、装飾され、粉飾されているかがわかる。しかし、嘘を見抜くことはできない。
 真名は感じることができるだけで、心が読めるわけではない。
 嘘を吐いてる事はわかっても、その内容までは真名には読み取ることはできない。
 存在を認識していても説明できない。
 真名にとって高瀬明という男は、その塊、むしろそのもので出来た化け物だった。陰謀と策略が人の形をしているだけ。
 表は無くて裏しかなく光は無くて闇しかない。裏と闇と陰と影と虚と無によって形作られた硬質な人ではない何か。

 「そうは言ってもあいつは有用だ。あいつが何を腹に抱えてるかはしらねぇが、せいぜい利用させてもらうさ」

 狩野は高度なゲームを楽しんでいるかのように歪んだ笑みを漏らすと、ポケットからクシャクシャになった一万円札を取り出して真名に渡した。

 「少しは歩けるようになっただろ?今日はもういい、タクシーでも拾って帰れ」

 狩野はそう言って缶コーヒーを飲み干すと、腰を上げて歩き出した。

 「あの、私…」

 呼び止めようとする真名に、ついてくるなとばかりに狩野は手を振った。
 振り返ることも無く小さくなっていく狩野の背を見ながら、真名は力の入らない手でコーヒーの缶を握り締めた。


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