9 :ワールドコード

 (胸クソ悪ぃが、あのガキに無理させるわけにはいかねぇからな)

 繁華街の路地裏を狩野は苛立ちながら歩いていた。

 (あいつには、それこそ奴らを皆殺しにするまで役に立…あ?)

 思考の途中で、右手の違和感に気づき狩野は立ち止まった。
 右手に当たる風の感触がいつもと違う。ふと、目を落とすと指が増えていた。指の付け根から新しく指が四本、右手の指が計9本に変わっていた。

 (あいつだ)

 瞬間、狩野は精神干渉による幻覚を見させられていることを理解する。
 ただ何が起こっているかわかっているからといって、それがありえない現象だったとして、それが現実ではないからと言って、足元から這い登る恐怖を抑えることはできなかった。
 悪夢のように、意味もなく恐怖だけが膨らんでいく。
 金縛りにあったように、手から目が離せない。
 ふいに、新しく増えた四本の指が蠢いた。もともとの指と同じように感覚がある。皮膚が空気に触れる感覚。筋肉が収縮し、関節が曲がり、動きが骨に響く感覚。しかし、指は自らの意思に反して好き勝手に蠢き、虫のように這い回る。
 声にならない声が口から出たのが狩野にはわかった。叫んでいるのに声が耳には届かず、ただ頭蓋を振動させた。
 思わず、右手を振り払うように壁に叩きつけた。手が壊れてしまうほどの全力。事実、何本か骨の折れる痛みと感触があった。
 その瞬間、あたり一面に泣き声が響き渡った。狩野が目を向けると壁が、一面、赤子の顔に変わっていた。
 壁を埋め尽くす無数の顔、見分けのつかない赤子の生首が隙間無く敷き詰められ、そのうちの一つに狩野の指が突き刺さっていた。
 血を流しながら痛みを泣き声に変える赤子に、呼応するように壁一面の赤子の顔がそれぞれ悲痛な叫びをあげる。
 統一性の無い泣き声の洪水の中、赤子の顔に突き刺さった狩野の指は勝手に赤子の顔に侵入していく、指が瞼をこじ開けまだ視力を持たない目を抉り、柔らかい頬肉を爪に食い込ませて削り、小さい喉に突き立てられた指が血を吐かせる。その感触全てが正確に狩野に伝わる。
 今度こそ、狩野は悲鳴を上げた。
 恥じも外聞も無く、情けない悲鳴をなりふり構わずあげ続けた。
 涙と汗と鼻水と涎で顔をグチャグチャにして、服が汚れるのも気にせず嘔吐した。
 気まぐれに襲い掛かってくる幻覚による精神攻撃。
 狩野が超能力者を憎む根本的な要因、植えつけられた原因。
 幼い頃から狩野は断続的にこの精神干渉を受けていた。それは天災のように気まぐれながら悪意に満ちた人災で、公害のように一方的にもたらされる害悪だった。消し去るすべは無く、抗うすべは無く、訴える事もできず、耐える事すら許されない。
 しかし、狩野は見える幻覚が毎回違っていても、垣間見える悪意は同一のものだと理解していた。幼い頃から、これが悪意をもってもたらされている何者からかの攻撃なのだと理解していた。けして自分が狂ってしまったわけではないのだと―そして、狂った。怒りと憎しみと狂気に狩野は狂った。

 (どこの誰かはわからない。何が目的なのかもわからない。だが、こいつは敵だ。必ず殺す。そして同じような、力を持った人間がいるはずだ。人智を超えた能力を持つ人間は一人残らず狩りつくしてやる)

 そう狩野は決意した。 
 そして、今、再びその決意を叫ぶ。声にはならなかった。胃液で荒れた喉が血を出すに過ぎなかった。それでも、狩野は叫びながら天を睨みつけた。どこかの誰かに向かって、安全なところでほくそ笑んでるだろう見知らぬ連中に向けて、狩野は咆哮した。
 しかし、まだ―勝てない。
 狩野恭一は限界を向かえ、気を失った。


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