1 :
ワールドコード
人の力によって突如生み出された激流は渦となり、同じく人によって生み出された穢れを飲み込み押し流していく。
地響きにも似た轟音と共に――
自らも混ざり、穢れながら――
――全てを洗い流し、消し去り、地の底に吸い込まれるように落ちていく。
狩野はそれを眺めながら、湧き上がる達成感にも似た何かに口の端を歪ませ、最後まで見届けることなくその場を後にした。
「あぁ、スッキリしたぁ〜」
研究所に戻ると、開口一番、清々しい笑顔で狩野は感嘆の声をもらした。
「……あの、そういうのやめてもらえます?マジおっさんくさいです」
滅多に見せることの無い表情の雇い主を見て、研究所の所員である一条真名は、汚物を見るような目で狩野を睨んだ。
「あぁ?人間、出すもん出したらスッキリすんだろうが」
「だから!デリカシーが無さ過ぎです!いちいち口に出さなくてもいいでしょ!」
狭い研究所の入り口からすぐ正面に設置された安物の応接セットのソファに座った真名が抗議の声を上げた。
彼女の座るソファの前のテーブルの上には、小皿に上品に盛られた和菓子と緑茶が置かれている。
「つぅか、お前こそなに職場で菓子食ってやがんだ?丁寧に茶まで入れやがって」
「今日のおやつは『洋源堂』の特製ようかん。限定品ですぐ売り切れちゃうんですよ」
「売り切れちゃうんですよじゃねぇ、なに幸せそうな顔してんだ」
「今日は並んでたら運よく買えました」
「並んでまで良く買うなそんなもん……それ……その色、俺がさっき」
「それ以上言ったら二度とトイレに行けない体にします」
本気で睨む真名を、面倒くさそうな目で見ながら狩野はスーツのズボンで手の水気を拭く。
「ちょっと、狩野さん!ハンカチ持ってないんですか?」
「あぁ?んなもんいちいち使ってられっか、めんどくせぇ」
「それぐらい面倒臭がらないで下さいよ!ほらぁ、そんなところで拭かないで」
「うるせぇな、何処で拭こうが俺の勝手だろうが」
「だからって、スーツで拭くのはどうかと……吸水性ないし……」
「大体お前はいつも……」
「狩野さんこそ、いい加減……」
その時、言い争う二人の間に割り込むように、ドアをノックする音が研究所に響いた。
「…………」
狩野はノックの音を聞くとすぐに口を閉ざした。
「………………?」
突然、静かになった狩野を真名は不思議そうに見つめた。
研究所の中をしばしの静寂が支配した後、再び丁寧に、しかし、しっかりと主張するようなノックの音が響く。
「………………」
狩野は黙ったまま、ぐったりしたように力を抜いて、真名の向かいのソファに腰掛けた。
そして、当然の様に真名のお茶に手を伸ばす。
「ちょ、私のお茶とらないで下さいよ!」
真名が文句を言うのと同時に、さらにノックの音が響いた。
一回目と二回目よりも二回目と三回目のノックの方が間隔が短いように感じられた。心なしかノックする力も強くなっている気がする。四回目のノック。
「………………」
それでも黙ったままの狩野に、真名はおずおずと問いかける。
「……………………あの…出ないんですか?」
狩野達が返事をしないためか、ドアがノックされる間隔は次第に短くなり、今やほとんど連打されるようなものに変わっていた。丁寧さがなくなり荒々しくドアが打ち鳴らされる。
狩野はさほどおいしくも無さそうに茶をすする。
「あぁ、俺は今、ティータイムだからさ」
「……私のお茶ですけどね、それ」
ドアの向こうの相手は業を煮やしたのか、遂にドアを蹴る音が響き始めた。
もはやノックとは呼べない、ドアを打ち破るかの様な音が響き渡る。
「……か、狩野さん……出たほうがよくないですか?」
怯えた目で訴えかける真名に、狩野はやる気の無い淀んだ瞳で答える。
「……で、そのヨウカン、俺の分は?」
「いや、無いですけど」
「よし、仕事するか」
「………………」
無言で訴える真名の嫌そうな顔を横目で見ながら、狩野は打ち鳴らされるドアに向かって怒声をあげる。
「うるせぇ!とっとと入って来いよ、ボケが!」
真名はあまりにも自分勝手な雇い主を恨みがましい目で睨みながら菓子を持って席を立った。
研究所、奥。情報収集担当のひきこもり所員ミハエル=ブランケンハイムはパソコン画面に多様なウィンドウを展開し情報収集、演算、プログラミングをしながら、研究所内に設置されたカメラの映像をウインドウの一つに映して真名と狩野のやりとりを眺めていた。
『うるせぇ!とっとと入って来いよ、ボケが!』
画面の中から傍若無人な狩野の声が響く。
立ち上がった真名が画面の端に消えるのを見て、ミハエルは片方の眉を上げた。
ミハエルのいる部屋の扉が開いて仏頂面の真名が入ってくる。
「どうしたの?」
ミハエルは画面を見たまま、振り向くことなく真名に声をかけた。
真名は無言でミハエルの机、キーボードの横にヨウカンの乗った皿をそっと置くと、ミハエルの後ろに設置されている仮眠用のベッドに不貞腐れたように身を投げ出した。
「なに?食べていいの?コレ」
困ったように肩をすくめてから、イスを回転させてミハエルは真名に声をかけた。
ベットの上で薄手のタオルケットに頭から包まって、足だけ出して横になっている真名からの返事は無かった。不機嫌なオーラが漂っている。
ミハエルは諦めたように力を抜いて、最後に一つ注意しておく事にした。
「どうでもいいけど、八つ当たりで物壊したりしないでね」
「私はそんなことしないもん…」
「まぁ、真名はしないだろうけど」
頭隠して尻隠さずで不貞寝をしようとする真名からの返答に、ミハエルは溜息をもらすと、再びイスを回転させてパソコンの画面に戻った。
(無理に起こしても面倒くさい。それに―)
ミハエルは真名の事よりも、画面の向こう、研究所内の様子に強い興味を惹かれていた。
(んー、なんだか変なやつが来たな…)
画面には狩野と、もう一人―来客した男が映し出されていた。
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