狩野は四白眼になるほど目を見開き、頬が千切れんばかりに笑顔を形作る。
「だからぁ、樋成・j・バルザックなんてバレバレの偽名を使って、それがバレた後、さも本名のように語っていた樋成朔太郎って名前も嘘!ご丁寧に嘘の経歴、個人情報まで創り上げてたけど、樋成朔太郎なんて存在しない!そうだろう?樋口翔さんよぉぉ!」
歯をむき出して笑顔を作りながらも、狩野の瞳は歪むことなく樋口を見つめていた。
狩野は手元のレポートを一枚めくると、そこに書かれた樋口翔という人物についての個人情報を読み上げていく、出身地、学歴や職歴、現住所から携帯の電話番号、使用しているカード会社、実家の住所、家族構成。
知られてしまうことが致命的になりかねない情報、しかし、先ほど読み上げられた樋成朔太郎の情報とは全く違う、別人の情報。
樋口は自分の喉下に死神の刃が突きつけられていることを感じていた。
少しでも鎌が引っ張られれば、あっさり首が空を飛ぶだろう。
樋口はせわしなく視線を動かし、なんとか弁解の言葉を口にしようとするが、不自由になってしまった口からは何も出てはこなかった。
そんな樋口に対して狩野は恐ろしく優しい声で語りかける。
「とりあえず、だ、死ぬ前に俺の話を聞いてくれ、俺もお前を殺す前に聞きたいことがあるからよ」
荒れ狂う感情を押さえつけるような狩野の優しい声は樋口にとって恐怖でしかない。
「あからさまな偽名を名乗る自称超能力者の下らないパフォーマンスを、何で俺が黙って見ていたかって事なんだ。俺の物じゃないハンカチを渡した時から、お前が超能力者じゃないって事はわかってたんだ。馬鹿でもわかる。それなら何でお前の話を聞いてたかってことなんだ。好き勝手言ってくれたよなぁ、稲森の名前まで出しやがってよ。懐かしかったぜホント」
自嘲的な笑いと嘲笑的な笑みを浮かべながら語る狩野を見ながら、樋口は状況を打破するために頭を回転させるが、妙案は出てこない。
どんどん選択肢が狭まり、追い詰められていることだけ樋口にはわかる。
「お前がどこまで知ってるか、それを確かめようと思ってな、いや、実際、確かに良く調べてたよ。感心した。兄貴と天城が消した事まで調べてきたんだからな。稲森が隔離されてる病院だって知ってるんだろ?それこそ超能力と呼んでもいいんじゃないか?でもなぁ、いくらてめぇが優秀で高い調査能力を持っていたとしても、調べただけじゃ、絶対にわからない事があるんだよ。俺も忘れていたような―」
崖っぷちに追い詰められていく樋口を見て狩野は嗤う。
「―幻覚の内容を、何でお前が知っている?」
足を踏み外し、崖っぷちに手だけで?まり、奈落の底に飲み込まれまいとする樋口のその手を、必死にしがみつくその指を狩野は一本一本外していく、ゆっくり、丁寧に、楽しみながら。
「確かに、幻覚の内容を医者どもに話したことはある。それでも全部じゃない。お前が話した幻覚の内容は確かに俺が見たものだ。それも俺が話を聞くまで忘れていたようなやつだ。それに、稲森が壊された時に見た“アイツ”の姿は俺と稲森しか知らないはずだ。それなのに何故お前が正確に、事細かに知っているのか。ここまで言えば馬鹿でもわかる!答えは簡単―」
狩野は、樋口を奈落の底に突き落とす。
「―お前、“アイツ”と繋がってるな」
狩野の言葉に樋口は魂が抜けたように、茫然自失として動きを止めてしまった。
捕らえた獲物をどう料理するか考え、狩野は歓喜に満ちた目を輝かせる。
狩野の目線の先、虚空をただ映していた樋口の目がゆっくりと、徐々に開かれていく。
限界まで開かれた樋口の目は次に瞳の中の瞳孔を広げていく――
―恐怖と驚愕と狂気に。
「ウギャアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!」
何が起こったか狩野が理解した瞬間、それまで身動き一つしなかった樋口が雄叫びを上げた。
見えない何かに怯えるように樋口は飛び上がり、涎を撒き散らしながら、目を血走らせ、耳を掻き毟りながら暴れまわった。
押さえつけようと狩野が立ち上がろうとした瞬間、研究所のドアが開かれて真名が戻ってきた。
ドアが開かれたのを見ると、狂った樋口は真名を突き飛ばすようにして出て行った。
階段を転げ落ちていく音と、怯えた叫び声が階下へと遠ざかっていく。
「くそっ!」
突然、突き飛ばされて驚いていた真名が、研究所の中に視線を戻すと、狩野が苛立ちをぶつける様に机に蹴りを入れていた。
八つ当たりの音が部屋中に響く。
「どうしたんですか?」
うかがうように問いかける真名に、狩野は忌々しそうに顔を歪める。
「“アイツ”だ!くそっ!繋がりのある奴を見つけたと思ったら、辿られないように痕跡を消しやがった!」
後悔と怒りが体の中で暴れまわっている狩野に対して、真名は不思議そうに首を傾げる。
「痕跡を消したって、どうやって?」
「お前もさっきの奴、見ただろ?幻覚だよ!幻覚を見せて壊しやがった!」
「え?さっきの人、幻覚なんて見てませんよ?全然、正気でした」
「は?」
「……え?」
狩野は真名の薄っすら青く光る瞳を覗き込む。
覗きこまれた真名の眼は、人の中身を感じ取る―狂っているか狂っていないか、狂っていてもいなくても。
超能力者の少女は不思議そうに青い視線を狩野に返す。
わかってたんじゃないんですかと問いたげに。
沈黙が場を支配する中、狩野はゆっくりと真名に近づいていく、幽鬼のようにゆっくりと、それでいて流れるように恐ろしいスピードで近寄り、真名の頭にその手をそえる。
「痛い、痛い、痛い!なんですか?狩野さん!なんで、こめかみをグリグリするんですかぁ、痛い!ホントに、ちょ……ぎゃー」
やり場の無い狩野の怒りは、真名の嘆きを生み出した。
樋成・j・バルザックを名乗り、樋成朔太郎を偽っていた男、樋口翔は悠々と、繁華街を歩いていた。
樋口は追いかけられていない事を解っていたし、例え追われていても捕まる事はないと確信していた。
樋成は必ず追っ手を撒けるような、樋口を追っ手が見失うような逃走経路を事前にいくつか選定し、状況に合わせて最適なルートを選べるように事前に準備をしていた。
それでも、樋口にとって、全く追われなかった事は予想外でもあった。
樋口は狩野のことはもちろん、真名や、研究所の奥に引き篭もっているミハエルの事も調べを済ませていた。
真名との追いかけっこを期待していた樋口は、それを残念がる余裕すら持ち合わせていた。
鼻歌交じりに歩く、道の先に、異様なモノが存在しているのを樋口は見つけた。
樋口以外の通行人はその存在に気づくことは無い。
皮の中に血液を満たしたような真っ赤な赤ん坊が笑いながら二本足で樋口の前に立っている。
「いやはや、見慣れてきたとはいえ、突然、目の前にお出になられるのを見ると肝が冷えますな」
口ではそう言いつつ、樋口の顔は笑みを湛えていた。
『そうかい?一番イメージしやすいし、僕だってわかりやすいと思ってこの姿にしたんだけど』
樋口にしか聞こえない声で語りかける赤ん坊の声は、おどろおどろしく禍々しい、異常な存在である事を強く意識させる響きで、樋口の脳に響いた。
「私は超能力者ではない平凡な一市民ですので貴方様のお姿、それだけでも恐怖の対象となるのですよ」
樋口の言葉に赤ん坊は笑う、大人と同じ表情の作り方が異質さを際立たせて気持ちが悪い。
『平凡な一市民であるところの君の調査能力は、超能力でなくても、僕には恐怖の対象だよ』
「ご謙遜を」
『ヒナリ、話し方が気持ち悪いよ』
ヒナリと呼ばれた樋口は苦笑いを返す。
ヒナリと異質な存在は並んで歩きながら言葉を交わす。異常な声はヒナリにしか聞こえず、ヒナリの声もまた、赤ん坊の超常的な力によって通行人に届くことは無い。
『ヒナリ、どうだった?狩野は?』
「なかなか面白かったよ。偽名がバレるとは思わなかった」
口調を変えたヒナリの答えに赤ん坊はとても愉しそうに笑う。
『全部、バレたのかい?』
「まさか、5つあるうちの2つ目までさ」
ヒナリは新しい玩具を見つけた子供のように無邪気に笑いながら、帽子を脱ぎ、付け髭を外す。
「人を騙そうって人間は、自分が騙される可能性もきっちり考えておかないとね」
皮を剥ぐように、顔に施された特殊メイクを取り除いたヒナリの顔は、先ほどまでと比べて10歳以上若い―
―別人の顔だった。
File 2 : 欺瞞の語り手 ―deceptive storyteller― 終