3-1 :
ワールドコード
夜は喧騒が響く繁華街の雑踏も、太陽が昇りきるまでは閑散としている。
人よりもカラスが支配している朝の雑踏を一人の男が歩いている。
着崩したスーツ姿で、だらしなくフラフラと歩きながらも、その目は油断無く辺りを警戒し、鋭い光を放っている。
一見して堅気のものではない雰囲気を纏っている男、狩野恭一は、大口を開けて欠伸した。
欠伸のせいで出た涙を拭うこともせず、狩野は目的地である職場へと向かう。
(くそっ、たかがゲームに熱くなりすぎたな。結局、ミハエルに勝ち越されるし、あぁ!思い出したらムカついてきた。あの野郎、姑息な手ばっかり使いやがって、汚ねぇんだよ)
狩野はイライラを紛らわすように首を鳴らす。
昨晩、狩野は自らが所長を務める職場『狩野ESP研究所』の奥で、もはや研究所に住み着いてしまった引き篭もりの所員ミハエル=ブランケンハイムとTVゲームをしていた。
ただの暇つぶしのつもりでゲームを始めた狩野だったが、思いのほか熱くなってしまい、そのまま朝を迎える羽目になってしまった。
予定外の徹夜をしてしまい、家に帰るのも面倒なので、研究所近くのカプセルホテルでシャワーだけ浴びて、今こうして朝の繁華街を歩いている。
したがって、職場に向かっているといっても、出勤というより、職場に戻る帰り道といった方が正しい。
狩野は、鼻から大きく息を吸う。
街に染み付いた生ゴミの匂いで肺が満たされる。
「爽やかさの欠片もねぇ」
ぼやいて、狩野は大通りからわき道に入る。
(げっ……)
わき道に入った狩野の視線の先、『狩野ESP研究所』が入っている雑居ビルの下。
狩野は見知った人影を見つけて顔をしかめる。
赤毛を後で束ねた小柄な少女。エプロンをして、箒を持っている。
しかし、箒は使われる事なく脇に抱えられ、少女は雑誌を開き、それを熱心に読んでいる。
少女の年齢なら平日の今ごろは高校に行き勉学に励んでいるのが普通だが、彼女はとある理由によって学校には通っていない。
少女の名前は塔堂黒江《とうどうくろえ》『狩野ESP研究所』が入っている雑居ビルのオーナーの娘であり、この雑居ビルの管理人である。
家の方針か彼女の希望か、親の仕事の見習いという形で就業中だ。
近づく狩野には気付かず、黒江は真剣な面持ちで雑誌を読みふけっている。
狩野はちらりとその表紙を見て、またかと思った。
『週刊実録“極”道~抗争編~』
素朴さの残る可愛らしい黒江の顔とは不釣合いな厳つい表紙の雑誌。
血なまぐさい抗争や事件が載ったヤクザの情報誌を、少女は目を輝かせながら読んでいる。
「掃除しろボケ」
狩野は黒江の頭に手刀を振り下ろした。割と強めに。
「へぶっ!?私の命を狙うとは、どこの鉄砲玉ですか!って痛い!」
不意打ちをくらって小動物のように辺りを見回す黒江に、狩野は再度、手刀をおみまいした。
「なんで、鉄砲玉がお前の命なんか狙うんだよ。刑務所に入るならもうちょっと有意義な相手を狙うわボケ」
あきれた様に吐き捨てる狩野を、黒江は頭を押さえながら見上げて目を輝かせる。
「なんだ~アニキじゃないですか~。おはようございますアニキ」
殴られた事については何の不満も無いのか、黒江は屈託の無い笑顔を狩野に向ける。
(うっ……)
狩野は思わず一歩後ずさる。
まさに純真無垢といった黒江の笑顔を見ると狩野は何故か気後れしてしまう。
穢れの無い赤ん坊を見ると、いかに自分が薄汚れた存在になってしまったか意識してしまうのに似ている。
そんな日陰者を照らすお天道様のようにニコニコとしている黒江に、狩野は苦虫を噛み潰したような顔を向ける。
「誰がアニキだ、誰が」
狩野の言葉が理解できなかったのか、黒江は一瞬、キョトンとした顔をしたが、すぐにえへへ~と破顔する。
「アニキはアニキであってアニキ以外の何者でもなくアニキ以外はアニキではなく、アニキはアニキとしてアニキなのであってアニキでしかないのでアニキはアニキじゃないですか」
「アニキがゲシュタルト崩壊を起こしそうだ」
「アニキが崩壊?ならばアニキは一体……」
「一体……じゃねぇよ、不思議そうな顔すんな」
三度目の手刀。見事にくらった額を押さえながらも何故か黒江は嬉しそうに笑う。
「まぁ、まぁ、慕っている人間をアニキと呼ぶのは当然の事じゃないですか。そんなことより、見ましたか?今週の『週刊実録“極”道~抗争編』!」
「なんで毎週見てること前提なんだよ」
嬉々として雑誌のページを見せてくる黒江に、何を言っても無駄かと、狩野は諦める。
「今週は、あの射概玄十郎《いがいげんじゅうろう》特集ですよ!」
「あのって、どのだよ。てめぇの知識を世間一般の常識みたいに言うな」
「知らないんですか?伝説の任侠ですよ!東西に無数に広がる組同士が覇権を争っていた戦後の大抗争時代、その立役者の一人です。どこにでも現れ暴れるその姿はまさに、神出鬼没。伝説によると東京で組を一つ潰した一時間後には大阪の抗争に加わっていたとか。親分を庇って投獄されていたはずなのに、次の日には熊本で銃撃戦をしていたとか。捕まっても捕まっても組のピンチには駆けつける。酷い時には牢屋に入れられた瞬間、看守が目を離した一瞬の隙に脱走していたらしいですからね。別名“昭和の脱獄王”!ふわぁ~カッコイイ!それでですね……って、聞いてくださいよアニキ~」
「うるせぇ、とっとと掃除しろボケが!」
熱く語り始めた黒江を無視して狩野は雑居ビルの階段を登る。
なにやらブツブツ言っている黒江の声を背中で聞きながら狩野は溜息をつく。
普段から、嘘や策略、裏表だらけの世界に住む狩野からすれば、純粋に何でも真に受け、皮肉の通じない黒江は正直、苦手だ。
(朝からなんであんなにテンションが高いんだアイツは……)
無駄に元気で、少女らしい高い声が寝不足の脳に辛い。
シャワーを浴びた爽快感はもはや跡形も無い。
狩野は大きく欠伸をしながら、ぐったりした足取りで階段を上る。
(研究所についたらとりあえず寝るか)
狩野はそう心に決めた。
次へ
HOME