ワールドコード :3-23
 「井口だ」

 突然、後ろからかけられた声に、柿元は言葉を飲み込む。柿元の頬を冷や汗が伝う。
 壊れた人形のように柿元が振り返ると、すぐそばに怒りに満ちたゴリラの顔があった。

 「てめぇか、組の周りをかぎまわってるネズミはよぉ!」

 井口は怒声を上げると、力いっぱい柿元を殴り飛ばした。
 声を上げる間もなく柿元は壁に打ちつけられ、崩れ落ちる。

 「KAKKYさん!」

 黒江は柿元に駆け寄ろうとするが、井口に胸倉を掴まれ、押さえ込まれてしまう。
 井口の荒い息が黒江の顔にかかる。

 「お嬢ちゃんよ。少しおいたが過ぎたんじゃねぇか?知っちゃいけないことを知っちまったら。女子供でもただじゃ済まないんだぜ?」

 いきなり殴りつけたりはしないものの井口が黒江を離す気配は無い。

 「ビビって声もでねぇか?まぁ、抵抗しないのは正解だ。痛い目にあわないですむからなぁ」

 井口はこのまま黒江を組の事務所に連れて行こうと腕に力を込める。

 「あれあれ?クロじゃん!なーにやってんのー?」

 その時、明日の事は考えていても来週のことなど考えていないだろうペラペラな声を出しながら曲がり角から若者が現れる。

 「ぁんだ、てめぇは」

 井口が怒声を浴びせても若者は「うわっ、こえぇ」などと言いながらも、緊張感の無い様子でヘラヘラと近づいてくる。 
 そして井口は彼のことを「てめぇ」と言ったがそれがすぐに間違いだったと気づいた。

 「すげぇ、音がしたから来てみたけど、クロがいるよクロが」
 「あ?まじで?あいつ今何やってんの?」
 「うわっ、人が倒れてんよ。だいじょぶですかぁ~、もしも~し」
 「なんかゴッツイおっさんに絡まれてるくせぇ~んだけど」
 「あれ?今日、バーゲンじゃね?」
 「いや、それ昨日だんべよ」
 「わ、ほんとだ、ウケル~」
 「いや、うけねぇよ。おっさんが」
 「つか、あれモノホンじゃね?やばいよ~まじやばいよ~」
 「やっほ~クロちゃん。久しぶり」
 「つーか、クロってゆーすけの幼馴染?あれが?」
 「え~、あんなチンチクリンより私のほうがよくな~い?」
 「バ~カ、ゆうちゃんは一途だから無駄だって。だから俺とさぁ~」
 「つか、ゆうちゃんに教えた方がよくない?」

 井口は「てめぇら」と言うべきだった。若者は一人ではなく、複数。男女合わせて十五名ほどがぞろぞろと通りに入ってくる。
 それぞれ好き勝手に会話しながら、緊張感の無い歩みで近づいてくる。
 井口は眉間に皺を寄せるが、しかし井口はプロだ。いくら数が多いとはいえ、街の不良集団相手に臆することなど無い。

 「あ、ゆうちゃんだ!お~い!」

 黒江は集団の中に知った顔を見つけて、胸倉をつかまれているにも関わらず、快活に手を振る。
 黒江が呼びかける方向に井口が目を向けると、なんとなくではあるが、集団が前を開けている少年がいた。
 若者達は彼の周りを取り囲みながら、決して彼の邪魔にならないように気を使っている。

 「てめぇが、ボス猿か」

 唾を吐き捨てる井口に、少年は答えず、肩を震わせ、拳を握り締める。

 「てめぇーっ!クロに何してやがんだぁぁぁ!!!!」

 言い終わるころには、少年は井口の顔面を殴り飛ばしていた。
 電光石火。少年の仲間達が止めに入る間も無く、井口が構える隙も無い。

 「てめぇ、何しやがった!殺す!ぶっ殺す!」

 怒りに我を忘れているのが、少年は井口が口を開く間も与えずに拳を振るう。
 本職相手だろうが少年は怒りのままに井口を殴る。
 膝をつく井口に止めとばかりに脚を蹴りだそうとしている少年を仲間達が数人で、取り押さえる。

 「ちょ、ゆうちゃん!まずいって、ヤーさんだよ!おっさん、ヤーさん!」
 「関係あるかぁぁ!!」
 「落ち着け、優介!クロは無事だ!つーか話がすすまねぇ」
 「離せ!てめぇらぁ!この腐れ変態オヤジが!クロの胸倉つかんでどうするつもりだったんだ!無い胸つかんでどうする気だった!あぁ!?畜生っ!答えろ!一文字しゃべるたんびに一回ぶっ殺してやる!おら!このくされロリコン!立て!そして、死ね!」
 「だめだこいつ。クロ!お前からも何とか言ってくれ!」

 仲間に取り押さえられながらも、優介と呼ばれた少年は井口に追撃を加えようともがく。

 「ゆうちゃん!」

 優介を止められるのは黒江だけだ。少年達の期待の目が黒江に注がれる。

 「誰が無い胸だぁぁ!」「「そこっ!?」」

 一連の出来事よりも、優介の発言が気に食わなかったのか黒江が渾身のアッパーカットを優介に向かって繰り出す。

 「おわっ!おお何だクロどうした?つーか無事か?てかなにしやがる」

 黒江の攻撃を反射的に、なんということもなしに受け止めて、優介はやっと我を取り戻す。

 「このっ、避けんなー!受け止めるなぁー!」

 黒江は何度もパンチを繰り出すが、特に強くも無い普通の女の子の攻撃なので、優介は難なく片手で払ったり、受け止めたりしている。

 「お、なんだクロ。早くなったな。おぉ、今の鋭い。つかなに怒ってんだ?」

 仲のいい兄弟がボクシングの真似事をしているような平和な光景に、優介の仲間の少年達は胸をなでおろす。

 「なめてんじゃねぇぞ!このクソガキ共がぁ!」

 一安心する少年達を再び緊張状態に戻すように、優介に膝をつかされていた井口が吼える。
 凄みのきいた怒声に、少年達は自分達が何をしたのか。何をしてしまったのかを強烈に意識させられる。

 「おい、やばいよ。どーする?」
 「ゆうちゃんが、突っ走るから」
 「謝っても許してもらえそうにねーぞ」
 「当たり前だろ!どーする?ボコってどっかに捨てる?」
 「俺らに復讐できなくなるまで痛めつけとく?」

 少年達に焦りが見え始める。時折、リンチや、拷問など不穏な単語が聞こえてくるが、井口にとってはなんら恐怖を感じることでもない。
 同業者相手に囲まれた時に比べれば、井口にとって街の不良少年に囲まれる事など脅威でもなんでもない。
 少年達が“殺す”と言ったところで彼らが本当に“殺す”ことなどできるはずが無い。むしろ“殺す”という言葉を使うことによって自らを奮い立たせている。いわば強がりに過ぎない。
 状況は少年達の優位にあったが、精神的には完全に井口が優位に立っていた。
 覚悟が違う。井口は少年達をただで帰すつもりはなかった。彼はそれだけの侮辱を受けていたと思っていたし、それだけ頭に血が上っていた。

 「てめぇら、ただじゃ済ませねぇぞ!黒澤組に手を出したことを死にたくなるほど後悔させてやるからよぉ」

 ゴッ。
 嗜虐的な笑みを浮かべる井口の頭部に突如、鈍痛が走る。
 意識こそ失うことは無かったが、井口は強い痛みと共に温かい血が頭から頬に伝うのを感じた。
 何が起こったのか理解しようと辺りを見回した井口は、何が起こったのかその原因を見つけた時、それをすぐに理解することができなかった。
 本能的な恐怖が理解を拒んでいた。
 少年達は言葉を失い、優介は額に手を当てている。
 井口の目の前には、血の着いた空き瓶を持つ黒江が立っていた。
 状況から推測できる現実をすんなりと理解することができずに、井口は混乱する。

 (血。この女が。空き瓶。さっきの痛みはこれか。気配が、殺気がなかった。何だこの女。血が。いてぇ)

 状況にそぐわない光景と、殴打された頭の痛みが井口を困惑させる。
 井口の頭からは少なくはない量の血液が流れ出している。女の子の細腕がこんな傷を負わせることができるのだろうか。できるとすれば――

 (この女が俺を殴ったのか?何の気負いも無く?思い切り?)

 ――一切の躊躇も無く、気持ちすらも手加減せずに、思い切り、殴りつける他はない。
 井口の理性は目の前の状況をゆっくりと理解し、井口の意識、無意識、その全てが恐怖に染まる。
 井口にとって、暴力とは武器であり、生きていく手段であり、覚悟だ。
 目の前の少女、塔堂黒江にとって、暴力とは、“なんでもない”。

 「父ちゃんが言ってたよ。組の名前を出されたらどうしょうも無いって」

 まるで、先生の教えを暗唱する小学生のように黒江は言って、微笑む。
 不良集団に囲まれても臆することの無かった井口は今、心の底から怯えていた。同業者に囲まれ銃を突きつけられた時よりも、井口の膝は笑っていた。
 何故なら黒江が無邪気に微笑んでいたからだ。
 人は暴力を振るう時、人が人に害をなそうとするその時には怒りや、敵意、殺意や覚悟が必要だ。必ず何らかの気負いが生じる。負の感情を感じない人間などいない――
 しかし、黒江は何の気負いも無く、まるで、外に出てみたら天気が良かった時のように微笑んでいる。
 ――もしいるとすれば、それはもはや人間とは呼べないほどに壊れたなにかだ。

 「拉致って、拷問いて、殺して埋めよう」

 黒江はなぞなぞが解けた子供のようにうれしそうに笑顔を広げる。

 「待ってくれ!やめてくれ!助けてくれ!なんでもする!あんたが言うなら地面も舐める!だから……」

 井口は懇願する。涙を浮かべ惨めに命乞いをする。
 しかし、負の感情の無い人間には響かない。罪悪感の無い人間は命を乞う惨めな姿に何も感じない。悪意の無い人間は憐憫も同情も慈悲も情けも持ち合わせない。
 目の前の少女は本当に井口を嬲り殺しにするだろう。
 虫を殺す程度の罪悪感も無く、邪魔な荷物を動かすように、何も思わず実行する。
 黒江は空き瓶をめいいっぱいに振りかぶり、井口は見るに耐えない哀れな表情を浮かべる。
 黒江は虫を観察する子供のように目を見開いて、井口は意識を失った。


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