ワールドコード :3-6
 「あぁ、めんどくせぇ」

 黒澤が帰った後、狩野は応接セットの安ソファに身を沈めながら天井に向かって呻く。

 「そんなこと言っても射概玄十郎には興味持ったんだろ?」

 狩野の向かいに座る引き篭もり所員ミハエル=ブランケンハイムが皮肉っぽく笑った。
 先程まで、研究所奥に篭り、固く扉を閉ざしていたこの所員は、齢十にも満たないが、異常な情報収集能力と演算能力を持つ研究所の頭脳ともいえる天才少年である。

 「なんか上手くのせられたっつぅか、してやられた感じでムカつくんだよ」
 「実際、してやられてるしね」

 狩野の言葉にミハエルはオーバーに肩をすくめる。
 大人ぶった態度が小憎たらしいが、狩野はミハエルの惨状を見て何も言わないことにした。
 現在、彼は幼い子供がそうされる様に黒江の膝の上に乗せられていた。
 人形やぬいぐるみを抱きしめるようにミハエルを膝の上に抱いて黒江はご満悦だが、子ども扱いされるのを嫌うミハエルの笑顔は引き攣っている。
はじめのうちは抵抗していたミハエルだったが、文句を言えば頭を撫でられ、逃げようとするとより強く抱きしめられ、何をしても「可愛い~」と黒江がテンションを上げるので、観念して今は大人しくされるがままになっている。
 衰弱した小動物のようにぐったりとした声でミハエルが呟く。

 「塔堂さん……ペット可愛がりすぎて病気にさせたことあるでしょ」
 「やだなぁ、ミーちゃん、塔堂さんなんて、黒姉ぇとかクロちゃんでいいんだよ。それにねー可愛がりすぎてペットを病気にしちゃったことなんてないよ~。死んじゃった事ならあるけど。えへへ」
 「なにそれ、怖い!しかも、なんでテヘッって感じなの?軽いよ!悲壮感ゼロじゃん!反省して無いじゃん!」

 生命の危機を感じてミハエルはもがくが、思いのほか黒江の力は強いらしく逃れられそうに無い。

 「もー、ミーちゃんはホント可愛いなぁ、持って帰りたいなぁ」

 満面の笑みで殺人的な頬ずりをする黒江の顔の横、ミハエルの目が光を失い、死んでいく。

 (か、狩野……何とかして……)

 声にならない声でミハエルが訴えかけるが、狩野はハートを飛ばしまくっている黒江と、ぐったりしていくミハエルを見て溜息を吐くと、二人のことは放置しておく事にして、携帯を開く。
 きっちり、2コール後に通話の相手、高瀬明の硬質な声が応対する。

 『なんのようだ?』
 「挨拶もなしかよ、まぁ、話が早くて助かるわ。射概玄十郎って囚人に会わせろ」

 理由も経緯も説明せずに、狩野は端的に要求だけ伝える。
 不躾な態度に文句を言う事も無く、高瀬は不可の事実だけを答える。

 『無理だな。刑務所は法務省の管轄だ。警察《われわれ》の管轄ではない。特例は通せない』

 平坦な高瀬の声を聞いた狩野は、挑発するように鼻で笑う。

 「おいおい、たかが法務省ごときの管轄一つ、どうこうできねぇ奴が進藤直人《うちの兄貴》と絡んでるわけねぇだろ?なんとかしろ」

 狩野の理不尽な要求を沈黙が答える。
 高瀬という男が安い挑発に乗るとは狩野も思ってはいない。しかし進藤直人の名前を無視することはできないことは知っている。
 十秒後。電話口から忌々しそうな声が返ってくる。

 『わかった、善処しよう。しかし……』
 「あーわかってるわかってる。なんかイイ事あったら教えてやんよ。そんじゃよろしく」

 いい加減に答えて、狩野は通話を切る。

 「はいはい!アニキアニキ!私も手伝います!お役に立ちます!」

 通話が終わるのを待っていたのか狩野が携帯をしまうよりも先に、黒江が学校の生徒のように元気良く挙手しながら訴える。
 まとわりついてくる犬の様にうざい。
 狩野は、教師に指されるのを待つ生徒のように瞳を輝かせる黒江を一瞥して。

 「帰れ」

 お前はビルの掃除でもしてろ。もしくは、クソして寝ろ。と続けようとして狩野の動きが止まる。
 見れば、黒江がまるでこの世の終わりの様な顔で呆然としている。

 「帰れって……私はただアニキの役に立ちたかっただけなのに……こんな私でも何かできればって……でも、アニキは帰れって……アニキにとって私は……」

 絶望に打ちのめされたような黒江の声を聞いて、狩野は言葉に詰まる。
 まるで、子供が楽しみに取っておいたお菓子を食べてしまったような罪悪感が狩野をチクチクと刺す。
 黒江が負のオーラを出しながら沈んでいくせいで、部屋の空気までが重くなっていく。
 普段、笑顔を絶やさない人間の傷ついた姿は胸を抉るものがある。
 その原因が自分であるならなおさらだ。

 (あぁあ、やっちゃった。どーすんのさこれ)

 黒江の膝に乗せられているミハエルが言葉を出さずに狩野を非難する。

 (なんだ?俺が悪いのか?)

 狩野は目で答えながらも、罪悪感が増していくのを感じる。

 (少なくとも、原因は狩野だと思うけど?)

 ミハエルの目が細まり、狩野の頬が引きつる。
 狩野は苦渋の選択をするように大きく息を吐く。

 「わかった。わかった。お前、街のクソガキグループのリーダーと知り合いだったな」
 「ゆうちゃんの事ですか?ゆうちゃんは幼馴染ですけど」
 「あぁ、その“ゆう”っての?そいつ使って、この辺で射概の目撃情報がないか調べとけ」

 狩野の言葉を聞いた途端、枯れた花が水を与えられて咲くように、黒江はみるみるうちに笑顔になると元気に返事をする。

 「わかりました、アニキ!アニキのお役に立てるよう精一杯頑張ります!」

 一瞬で、機嫌を取り戻した黒江を見て狩野はどっと疲れを感じる。
 盛大に溜息も出る。

 「仕事始まる前にお互いぐったりしてるが、ミハエル。てめぇは射概のことや、刑務所、連合組むとかいってた組のことを調べ――」
 「ミーちゃん!そう言うことなら私が一から教えてあげるよ!伊達に『週刊実録“極”道~抗争編』の愛読者じゃないんだから!何でも訊いて!」

 狩野の言葉が終わる前に、出番とばかりに黒江が目を輝かせてミハエルを抱きしめる。

 「まずね、四つの組ってのはどれも大所帯で――」

 すでに嬉々として黒江は話し始めていた。
 狩野はその様子を見て心の中でミハエルに手を合わせる。
 虎や熊にそのつもりがなくても、じゃれ付かれた人間は死んでしまう。
 狩野の脳裏に以前見た動物番組の映像が蘇る。

 (あのじいさん、虎に頭から齧られてたな。笑ってたけど)

 神妙な面持ちで研究所から出て行こうとする狩野にミハエルが気付く。

 「ちょっと狩野!この状況でなにどっか行こうとしてんの?塔堂さんエンジン入っちゃってるし!物凄い勢いで語り始めてる!僕の手に負えないよ!ちょっと!」

 慌てて引き止めようとするミハエルに狩野は親指を立てる。

 「死なない程度にがんばれよ」
 「そんな励まし、いるかあぁぁぁぁ!」

 研究所を離れ、ビルから出ようとする狩野の背後からは、少年の憐れで滑稽な悲鳴が響いた。


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