病室と呼ぶにはあまりにも大きすぎる空間の真ん中に、起きることの無い彼女と、彼女をかろうじて生かし続けている機械の群れが配置されている。
彼女は寝息を立て、延命装置は彼女の寝息を邪魔しない程度の静かな駆動音を立てながら眠ることなく動き続けている。
彼女が眠りに入り、延命装置が目覚めてからすでに十年もの月日が流れていた。
眠り続ける彼女の姿は十年前とほとんど変わらず、彼女を維持するための強化ガラスに映る僕の姿は十年以上の歳月の流れを感じさせた。
ただただ広い病室はこの世界に彼女と僕しか存在していないかのような錯覚を覚えさせる。
「最近、君と初めて会った日の事を思い出すよ。僕はただの学生で、君は特等学部の社長令嬢――」
僕は彼女の横顔が見える位置に腰掛け、眠り続ける彼女に語りかける。
「――高嶺の花だった。友達にもよく言われたよ。身分違いの恋だって。現実を見て諦めろってね」
彼女からの返事はない。それでも、僕は僕の声が届いていることを信じて何度も彼女に語りかけてきた。
いつか彼女が返事をしてくれるんじゃないかって、希望に胸を締め付けられながら語り続けた。
だけど、それも今日で最後になるだろう。だから、最後に僕の想いを語りつくそうと思う。
「だけど、君を一目見たその瞬間から僕はもう君に夢中だった。今だから言うけど、完全に一目惚れさ。僕は君以上に綺麗な花を見たこと無かった」
今思えば、一目惚れでも見た目は関係なかったんだと思う。むしろ見た目ではない彼女の何かが一瞬で僕の中に入り込んだんだ。
「僕は積極的にアピールした。友達に君とは住む世界が違うんだって諭されても、僕は気持ちを止められなかった。猛烈なアタックの甲斐あって、君から初めてデートの約束を取り付けた時は飛び上がって喜んだ。浮かれているし、緊張しているしで初デートは散々だったと思うけど、僕は君の笑顔を隣で見ていられるただそれだけで胸が締め付けられるように幸せだった」
話しながら恥ずかしくなって僕は頭を掻く。
「それから、二人で色んなところに出かけたね。君は怒るかもしれないけど、僕が覚えているのは素晴らしい景色じゃなくて、その景色を見ている君の表情なんだ」
美しい思い出はどうしてこうも切ないのだろう。鼻の奥にこみ上げたものを僕は無理やり飲み下す。
「何度目かのデートの後、正式に君に交際を申し込んだ時、僕はまさか断られるなんて思ってなかった。愕然としたよ。心が通じ合ったと思っていたのにってね。君の気持ちも知らず、僕は裏切られたような気分にすらなったよ」
だけど、彼女が僕を拒んだのには訳があった。
「しばらくして、君が入院していると聞いたときには時には驚いたよ」
何ができるわけでもないのに、気づいたら授業を放り出して、僕は彼女のいる病院に向かって駆け出していた。
「そこで君は泣きながら全てを打ち明けてくれた。先天性の病気の事。体が徐々に動かなくなり、最後は眠るように死んでしまう難病で、もういくらかも普通の状態ではいられないこと」
僕に迷惑をかけたくなかったと泣きながら告白する彼女に僕は考えるよりも先に声が出ていた。
「そんなの関係ない。僕は君と一緒にいたい。それは幸せなことで、迷惑なんてありえないなんて、今思えば、何にも知らずに勢いだけでそんなことを口にしていた気がするよ。だけど、その時は泣きながら笑う君の顔を見てこれで良かったんだなんて思ってた」
僕は何にもわかっていなかったんだ。病気のこと。愛する人が病に蝕まれていく苦しみ。何もできない不甲斐なさ。
「君と過ごした日々は素晴らしく、とても幸せなものだったけど、徐々に体が動かなくなっていく君の前で、笑顔を作るのが精一杯だった」
僕は当時のやるせなさを思い出して拳を握る。
眠ってしまう最後の瞬間に、笑った彼女の顔が脳裏をよぎる。
「君に最後のおやすみを言った後、途方にくれる僕の前に君の親御さんがやってきた」
彼女の両親は、自分の子供と同い年のただの学生にむけるものとは思えない表情で僕の前に立った。
「親御さんの表情の意味は、その時渡された君の遺書を読んだらすぐにわかった。あぁ、これが覚悟を決めた人の表情なんだって」
遺書に書かれていたのは僕との思い出と感謝の言葉。そして。
「君は遺書の最後にこう書いていた――『私が二度と目覚めなくなってしまったら、貴方の手でどうか私を殺してほしい』――なにが書いてあるのかすぐにはわからなかったよ。手紙を読み終えて顔を上げた僕に君のお父さんが頷くのを見てやっと僕は理解したんだ」
娘の最後の願いを叶えるためだったんだろう。彼女の両親は僕にとても良くしてくれた。僕に優しい言葉をかけてくれたし、大学を卒業した後の僕のために会社にポストを用意してくれたりもした。まるで息子のように僕に接してくれた。
そして、僕が殺さない限り死なない機械に彼女の体を取り付けた。
それから僕の地獄が始まった。
「僕は君を殺すために何度もここを訪れた。返事をしない君に語りかけていたのはそうやって僕も覚悟を決めるためだった」
彼女を無感情に生かし続ける機械の命を止めるだけ、ボタンを一つ押すだけで彼女の命も一緒に止まる。
「君は僕よりもずっと前に覚悟決めていたんだね」
眠り続ける彼女の寝顔に微笑みながら、僕は一枚の紙を取り出す。遺書に添えられていた一枚の小切手。
「僕が罪に問われることの無いように、君は遺書と“免罪符”を用意していた」
僕の背中を押すように。
「だけど、僕はどうしても君の命を奪えなかった。君が望んでいるんだとしても」
何度も僕は延命装置のスイッチに指を伸ばしていながら、どうしてもそれを押すことができなかった。
「君を殺して僕も死ぬなんて、ドラマや映画のようなことを思ったりもしたよ」
そんなことを十年もの間繰り返して、今日のこの日を迎えてしまった。
これが最後のチャンス。思わず声が震えてしまう。
「僕には君を殺せない。だから頼むよ。お願いだから……お願いだから目を覚ましてくれ」
震える声を絞り出して、僕は祈るように両手を握る。
「……ばか」
俯く僕の耳に錯覚のようにか細い声が響く。
奇跡を目の当たりにしたように顔を上げた僕の目に入ってきたのは十年前と変わらぬ姿で笑う彼女の姿。
強化ガラスに映る僕の顔が情けなく歪む。
「殺して欲しいって言ったじゃない」
泣きながら笑う彼女を見て、それだけで僕は十分だった。
彼女が起きたら言おうと思っていた気障な台詞も、喜びの言葉も、彼女を抱きしめたい衝動も全て吹き飛んでしまった。
何も言わずに見詰め合うだけで僕の心は満たされた。
死にたくなるほどの幸せを、生き返った彼女と二人でかみ締めた。
永遠とも思える時間。長い間寝ていた彼女が疲れて眠ってしまうまでの短い時間を僕らは過ごし、彼女が健やかな寝息を立てるのを見届けて僕は病室を後にする。
病室から出た僕を待っていたのは無機質な廊下と一人の男。
「おや、もうよろしいですか?」
音程の崩れたガラスの表面をこするような声で男は僕に問いかける。
「あぁ、彼女と話す時間はこれからはいくらでもある」
「愛する人と話せる時間が淀美博士のおかげだということをお忘れなく」
天国から再び地獄。悪魔のような男の声は幸せな僕の気分を墜ち込ませる。
だけど、僕は覚悟を決めたんだ。“免罪符”の小切手を僕は男に押し付ける。
「貴方は目覚めた彼女と一緒になる。そうすれば、彼女の親の会社は貴方が引き継ぐことになる」
無機質な廊下を背景に、いやらしく笑う男の顔は妙に映えている。
「わかってる。そうなった時には淀美博士への資金提供は惜しまない」
男の声を遮る様に吐き捨てて僕は廊下を歩き出す。
こんな男を一秒たりとも長く彼女の病室に近づけて置きたくはない。
彼らが何をしようとしているのか僕にはわからない。
それでも、彼女の命と引き換えに僕は男と手を組んだ。
たとえそれが、悪魔の取引だとしても――僕は彼女を殺すために罪を犯すのではなく、彼女を生かすために罪を犯すと決めたんだ。