Aサイド.8

 頭から降り注ぐシャワーは、まるで呵責するように、この身を叩き、弾けて流れる。
 清潔な水は汚れた身体を削り取るように洗い流していく。
 この水が本当に汚れを削り取っていくのなら、きっと自分と呼べる存在は何一つ残らず、綺麗さっぱり流れて、消えてしまうだろう。
 そうあるべきだし、そうするべきだ。
 目の前の鏡に映る自分と手を合わせる。
 細い首。細い肩。細い腕。細い手首。細い指。華奢な身体。
 無力さが浮き彫りにされているような自分の身体が疎ましい。
 教育係でもある先輩捜査官の身体とつい比べてしまう。
 太い首。広く大きな肩。筋肉の浮き出た腕。頑強な手首。太く短い指。まるで力の塊の様な巨躯。
 羨ましい。妬ましいのと同時に、しかし、安堵する。
 何故なら、もしも自分がそんな力を持っていたのなら――
 ――きっと、自分を止められない。
      ――きっと、ここにはいられない。

indulgentia                   
    サイドA 八章   -Tastes differⅠ-



 「なにを悩んでいるんですか?」
 目の前で机の上にばら撒かれた紙の束を見ながら腕を組む東大先輩に声をかける。
 所属を持たない独立捜査官のために全国の警察署内に設置された特殊待機室。
 簡素な会議室にも似た部屋の中で、先程から東大先輩はいくつもの捜査資料を広げ、それを取っては放り、また別のものを取っては放りを繰り返していた。
 早く捜査に出るべきだとは思うのだが、かれこれ2日間もこの調子だ。
 「どれが金になる事件か見極めんのも独立捜査官の仕事のうちだぜ」
 金の臭いを嗅ぐみたいに東大先輩はわざとらしく資料の一つに鼻を近づけひくつかせた後、つまらなそうに目を細めるとその資料を放り投げる。どうやらお気に召さなかったらしい。
 「えー、そんなことより“14区内臓落書き事件”に行きませんか?」
 自分は誰かさんのように守銭奴ではないので、捜査が金になるかならないかなんてどうでもいい。
 それよりも早く現場に向かいたいと思う。綺麗に掃除される前の生の現場に。
 「だめだ。あんなの一銭にもなりゃしねぇよ」
 東大先輩は自分の提案をあっさり却下してしまう。
 「それならどれにするんですか?」
 「金のなる木が埋まってる木がするんだが、どれも今ひとつって感じなんだよなぁ。ここまではキテんだよ。ここまでは」
 大きく出っ張った喉仏を指差しながら東大先輩は煮え切らない声でそこを振るわせる。
 自分は溜息の変わりにそっと目をふせて、机の上に広げられた資料に目を移す。
 “3区失踪事件”“児童消失事件”“捜索者名簿”“行方不明者一覧”“前期免罪符利用者一覧”
 なんだか行方不明者の資料が多い気がする。東大先輩の金欲センサーには何がひっかかっているのか。失踪者の捜索なんて金になるとは思えない。
 そして、なによりつまらない。
 自分が資料から視線を外し、先程まで読んでいた過去の捜査ファイルに目を向けた瞬間、ノックもなしに特殊待機室のドアが開いた。
 「なんだ先客が――って東大っ!!……先輩……」
 闖入者である若い男性は東大先輩を見て悪夢を前にしたような声をあげると、顔を引き攣らせながら言い訳がましく『先輩』を付け足していた。
 特殊待機室は所属を持たない独立捜査官のための部屋で、独立捜査官ならいつでも誰でも使用することができる。
 蛇に睨まれたカエルのように固まっているこの人も独立捜査官なのだろうか。
 東大先輩が何も言わずに立ち上がる。
 「いや~、あはは……東大先輩お久しぶりッスねってことで、お疲れ様ッス!」
 「待てよ立花」
 若い男性捜査官は適当な挨拶をして、逃げるように踵を返そうとしたが、そこはすでに東大先輩の間合いの中だった。
 東大先輩は威圧感のある嫌らしい笑みを浮かべる。
 それに対して、逃げ切れずに後首を捕まれてしまった立花捜査官は引き攣った笑みで答える。
 「……なん……すか?」
 「立花捜査官様は今は何の事件を捜査していらっしゃるんでしょうかねぇ?」
 「いや、もう全然ヘボな事件ッスよ。って、あぁっ!」
 立花捜査官の返事を待たずに、東大先輩は立花捜査官が脇に抱えていた資料を奪い取る。
 「はぁんね」
 「ほ、ほんと東大先輩の手を煩わせるような事件じゃありませんッスよ。場所もアレです。遠いッス」
 立花捜査官の声には耳も傾けず、東大先輩は“北街OL失踪事件”の資料に目を通す。
 「よぉし、新人!捜査に行くぞ」
 資料を読み終わると東大先輩が自分に向かって声をかけた。
 自分は急いで、机の上に広げられた資料をかき集めると、すでに特殊待機室から出て行ってしまった東大先輩の後を追う。
 「あの、立花って野郎はとんだヘボだが、金になる仕事を見つけてくるのだけは天才的なんだよ」
 自分が追いつくと必ず勝てる博打を前にしているかのように東大先輩は嬉々とした声で笑った。
 「あのう。いいんですかね?」
 自分は特殊待機室の方を指差して訪ねる。
 「立花捜査官、茫然自失で『ないわー、マジ……マジ、ないわー』とか言ってましたけど」
 「はっ、いいんだよ」
 東大先輩は蔑んだように鼻で笑う。
 眉を顰める自分に、良い事教えてやるよとばかりに東大先輩は歯を見せる。
 「いいか?独立捜査官ってのはな、縄張りを持たない。そのせいでかち合うこともある。そんな時、ヤマを取り合う相手を排除するために一番いい方法は嫌われとく事さ。嫌われて、疎まれて、避けられれば、勝手に向こうからいなくなってくれるってもんよ」
 そう言うと、東大先輩は歯の隙間から空気を出すように笑っていた。



                                                >>続く
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